ヒカリ
風が吹いて、頭上の梢を鳴らす。
揺れる梢も、その隙間から漏れる光が踊る様も、美しいと感じるのはそこに闇などないからか――。
「リヒト、こんなところにいた」
丘の上に立つ巨大な樹木の根元。そこに背を預けて足を投げ出すように座り込み、緩く瞼を閉じていると明るい少女の声が降ってきた。
誰だなどと思うまでもない。己を気にかけるような物好きを、リヒトは1人しか知らなかった。
「……そんなに息をきらせて俺のところへ来ても、何の得もありませんよ」
ゆっくりと目を開けば、眩いばかりの黄金が視界を埋めた。次第に、それが陽光を受けて輝く、少女の髪であることが判別できるようになる。
リヒトの言葉を受けて、少女――シュリの蒼い瞳が揺れた。そしてすぐに、ムッとしたように眦を吊り上げる。
「ほんと、ヒネてるわね。得はないけど損はある、とでも言いたいわけ?」
険しい声で言うシュリに、リヒトはわずかに下を向いて、――しかしその口元は笑みを刻む。
「――さあ」と僅かばかり間をとっての返事に、シュリは不満そうで。だが、それに気づいているだろうにリヒトは知らぬふりで立ち上がり、シュリに背を向けて歩き始める。
「黒は不吉だとか、オトナの言っていることを真に受けているわけじゃないでしょう?」
黒い色は、昔から良くないものとして扱われてきた。そして、リヒトはその黒を、その身に負って生まれてきた。村の人間のほとんどが黒を宿すリヒトを忌み嫌い、遠ざけようとしたのだ。
それに倣わなかったのは、ただ2人だけであった。
言い募るシュリは、歩むリヒトの後を追う。
それに気づいたのかどうか、リヒトは歩みを止めた。同じように後に続くシュリも立ち止まる。
「けれど俺の母が亡くなったことは事実ですよ」
「……っ」
リヒトの母は、シュリの他にリヒトを受け入れた人間だった。黒色を背負っていようと関係ない、この子は愛すべき私の子どもだと、そう言ってリヒトを大切に育てたのだ。
しかし、その彼女も、リヒトが10歳のころに、流行り病で命を落とした。
村の者は、リヒトが死を呼び寄せたのだと口々に言った。誰も彼も、リヒトを非難し、リヒトの母に対しては、リヒトに構うからだと厳しい言葉を浴びせた。彼女の夫であった者でさえ――。
「――だからって、あなたの髪や目の色と関係あるだなんて、どうして言えるのよっ。髪と目の色が黒いっていうだけで死を呼び寄せるだなんて、馬鹿げてるわ!」
「……」
叫ぶようなシュリの言葉は届いたのか、届かなかったのか。リヒトは何も返すことなく、再び歩き出す。今度は僅かに躊躇を見せながら、けれどやはりシュリは後を着いていった。何か、もの言いたげにリヒトの背を見つめながら。
「――どこまで着いてくる気ですか」
しばらく黙って歩いていたが、不意にリヒトが問いかけた。あまり唐突だったものだから、シュリは返答に困って考える。
すぐ近くで、小川のせせらぎが聞こえていた。
「……あなたは、どこまで行く気なの」
「さあ。ただの散歩ですから、特に考えていませんが」
「なら、私も同じよ」
リヒトの言葉を聞いて強気になるシュリに、リヒトは気づかれぬように息を吐いた。
「……ご両親が心配なさるでしょう」
「かまわないわよ、1人じゃないもの」
些か主旨が異なっている気がするのだが、シュリがわざとそうしているのか、それとも本気なのか、リヒトには判別がつけがたい。
「……俺といるほうが心配されると思いますが」
「そんなことないわよ」
リヒトの言葉で、シュリの声がまた険を帯びた。ムッとして言い返してくるのへ、そうでしょうか、と返す。
シュリがリヒトを気にかけることを、彼女の親は好ましく思ってはいない。
「俺を気にかけてくださるような物好きな方は、あなたぐらいですよ」
「――なら、余計にあなたを1人にするわけにはいかないわ」
強く言い切るシュリに、リヒトは再び、けれど今度はシュリにも分かるように、ため息を吐いた。当然のように、シュリはムッとする。
「あなた、失礼よ」
「良い気はしないでしょう、俺といても。何故、俺に構うんです?」
リヒトの足が再び止まった。
いつも穏やかな少年の口調が、わずかに棘のあるものになったことに気づいた少女も歩みを止めた。
まだ成長途中の少年の肩は薄い。決して広いとは言えないその背中と、シュリの知る中ではリヒトしか持っていない黒い髪を見つめながら、シュリはぼんやりと思う。
髪と同じく漆黒を宿すその瞳で、彼はこれまで何を見てきたのか。その小さな背に、何を背負ってきたのか。その綺麗な心は、大人たちの心ない言葉で、いったいどれほど傷つけられてきたのか。――シュリはまったく知らないのだ。同じ年、同じ月に生まれて、同じ村で今まで育ってきたのに。家だって近くて、大人にどれだけ止められても、構うことなくリヒトのもとへと通っていたけれど。
リヒトは決して彼女に心を許しはしなかった。その態度に苛立つこともあったけれど、今ではそれが、リヒトのシュリへの精一杯の優しさだと知っている。あるかどうかもわからないけれど、己をとりまく凶の気にシュリが巻き込まれないための優しさだと――。
「私は、好きよ」
ぽつりと、その言葉は少女の口から漏れた。
「あなたの黒い髪も、瞳も。とても綺麗だと思うわ」
続いた言葉に、何を言っているのかと、リヒトが振り返る。黒い、闇を映した瞳が少女をとらえる。
「何にも染まらない、意思の強さだって感じるもの。素敵だと思うのは、別におかしなことじゃないわよ。誰がどう言おうと、私は不吉だなんて思えない。恐れる理由なんて見つけられないわ」
「…………」
何と言えば良いのか、言葉を見つけられずにいるリヒトに、シュリはふわりと笑ってみせた。その蒼い瞳に、わずかに躊躇った様子を見せる少年の姿が映っている。
「ねえ、リヒト。私が言ってるのは、あなたの髪や目のことだけじゃないわよ。あなた自身のことも含めて言っているのよ。あなたはとても優しい人ね。――その優しさの表現の仕方はちょっと気に入らないけど」
「……」
何も言わず、ただシュリを見ていたリヒトは、わずかに目を伏せた。その瞼が、ほんの少しだけ、震えたのをシュリは見た。
「あなたのこと、私、好きよ。きっと、あなたのお母さんと同じくらいに」
ゆっくりと紡がれたその言葉は、ひどく暖かく優しい響きを持っていた。
「ほんとうに」
どれほどの時が経ったのか。何秒というほどしか経っていないのかもしれない、何十分と経っていたのかもしれない。シュリにはわかりはしなかったが、リヒトの口から漏れた言葉は、力ない響きをしていた。
「本当に、しつこい方ですね、あなたは」
「――そうよ。あなたがどれだけ嫌がってみせても、私はあなたを見放したりしないわ」
力強く言い放つ。まだリヒトの瞼は伏せられたままだったが、シュリは毅然とリヒトを見つめていた。
リヒトはその力強い言葉を受け止めるように頷いてみせて、ゆっくりと視線を上げて、少女の目を見返した。
「俺は近いうちに村を出ます」
揺れる梢も、その隙間から漏れる光が踊る様も、美しいと感じるのはそこに闇などないからか――。
「リヒト、こんなところにいた」
丘の上に立つ巨大な樹木の根元。そこに背を預けて足を投げ出すように座り込み、緩く瞼を閉じていると明るい少女の声が降ってきた。
誰だなどと思うまでもない。己を気にかけるような物好きを、リヒトは1人しか知らなかった。
「……そんなに息をきらせて俺のところへ来ても、何の得もありませんよ」
ゆっくりと目を開けば、眩いばかりの黄金が視界を埋めた。次第に、それが陽光を受けて輝く、少女の髪であることが判別できるようになる。
リヒトの言葉を受けて、少女――シュリの蒼い瞳が揺れた。そしてすぐに、ムッとしたように眦を吊り上げる。
「ほんと、ヒネてるわね。得はないけど損はある、とでも言いたいわけ?」
険しい声で言うシュリに、リヒトはわずかに下を向いて、――しかしその口元は笑みを刻む。
「――さあ」と僅かばかり間をとっての返事に、シュリは不満そうで。だが、それに気づいているだろうにリヒトは知らぬふりで立ち上がり、シュリに背を向けて歩き始める。
「黒は不吉だとか、オトナの言っていることを真に受けているわけじゃないでしょう?」
黒い色は、昔から良くないものとして扱われてきた。そして、リヒトはその黒を、その身に負って生まれてきた。村の人間のほとんどが黒を宿すリヒトを忌み嫌い、遠ざけようとしたのだ。
それに倣わなかったのは、ただ2人だけであった。
言い募るシュリは、歩むリヒトの後を追う。
それに気づいたのかどうか、リヒトは歩みを止めた。同じように後に続くシュリも立ち止まる。
「けれど俺の母が亡くなったことは事実ですよ」
「……っ」
リヒトの母は、シュリの他にリヒトを受け入れた人間だった。黒色を背負っていようと関係ない、この子は愛すべき私の子どもだと、そう言ってリヒトを大切に育てたのだ。
しかし、その彼女も、リヒトが10歳のころに、流行り病で命を落とした。
村の者は、リヒトが死を呼び寄せたのだと口々に言った。誰も彼も、リヒトを非難し、リヒトの母に対しては、リヒトに構うからだと厳しい言葉を浴びせた。彼女の夫であった者でさえ――。
「――だからって、あなたの髪や目の色と関係あるだなんて、どうして言えるのよっ。髪と目の色が黒いっていうだけで死を呼び寄せるだなんて、馬鹿げてるわ!」
「……」
叫ぶようなシュリの言葉は届いたのか、届かなかったのか。リヒトは何も返すことなく、再び歩き出す。今度は僅かに躊躇を見せながら、けれどやはりシュリは後を着いていった。何か、もの言いたげにリヒトの背を見つめながら。
「――どこまで着いてくる気ですか」
しばらく黙って歩いていたが、不意にリヒトが問いかけた。あまり唐突だったものだから、シュリは返答に困って考える。
すぐ近くで、小川のせせらぎが聞こえていた。
「……あなたは、どこまで行く気なの」
「さあ。ただの散歩ですから、特に考えていませんが」
「なら、私も同じよ」
リヒトの言葉を聞いて強気になるシュリに、リヒトは気づかれぬように息を吐いた。
「……ご両親が心配なさるでしょう」
「かまわないわよ、1人じゃないもの」
些か主旨が異なっている気がするのだが、シュリがわざとそうしているのか、それとも本気なのか、リヒトには判別がつけがたい。
「……俺といるほうが心配されると思いますが」
「そんなことないわよ」
リヒトの言葉で、シュリの声がまた険を帯びた。ムッとして言い返してくるのへ、そうでしょうか、と返す。
シュリがリヒトを気にかけることを、彼女の親は好ましく思ってはいない。
「俺を気にかけてくださるような物好きな方は、あなたぐらいですよ」
「――なら、余計にあなたを1人にするわけにはいかないわ」
強く言い切るシュリに、リヒトは再び、けれど今度はシュリにも分かるように、ため息を吐いた。当然のように、シュリはムッとする。
「あなた、失礼よ」
「良い気はしないでしょう、俺といても。何故、俺に構うんです?」
リヒトの足が再び止まった。
いつも穏やかな少年の口調が、わずかに棘のあるものになったことに気づいた少女も歩みを止めた。
まだ成長途中の少年の肩は薄い。決して広いとは言えないその背中と、シュリの知る中ではリヒトしか持っていない黒い髪を見つめながら、シュリはぼんやりと思う。
髪と同じく漆黒を宿すその瞳で、彼はこれまで何を見てきたのか。その小さな背に、何を背負ってきたのか。その綺麗な心は、大人たちの心ない言葉で、いったいどれほど傷つけられてきたのか。――シュリはまったく知らないのだ。同じ年、同じ月に生まれて、同じ村で今まで育ってきたのに。家だって近くて、大人にどれだけ止められても、構うことなくリヒトのもとへと通っていたけれど。
リヒトは決して彼女に心を許しはしなかった。その態度に苛立つこともあったけれど、今ではそれが、リヒトのシュリへの精一杯の優しさだと知っている。あるかどうかもわからないけれど、己をとりまく凶の気にシュリが巻き込まれないための優しさだと――。
「私は、好きよ」
ぽつりと、その言葉は少女の口から漏れた。
「あなたの黒い髪も、瞳も。とても綺麗だと思うわ」
続いた言葉に、何を言っているのかと、リヒトが振り返る。黒い、闇を映した瞳が少女をとらえる。
「何にも染まらない、意思の強さだって感じるもの。素敵だと思うのは、別におかしなことじゃないわよ。誰がどう言おうと、私は不吉だなんて思えない。恐れる理由なんて見つけられないわ」
「…………」
何と言えば良いのか、言葉を見つけられずにいるリヒトに、シュリはふわりと笑ってみせた。その蒼い瞳に、わずかに躊躇った様子を見せる少年の姿が映っている。
「ねえ、リヒト。私が言ってるのは、あなたの髪や目のことだけじゃないわよ。あなた自身のことも含めて言っているのよ。あなたはとても優しい人ね。――その優しさの表現の仕方はちょっと気に入らないけど」
「……」
何も言わず、ただシュリを見ていたリヒトは、わずかに目を伏せた。その瞼が、ほんの少しだけ、震えたのをシュリは見た。
「あなたのこと、私、好きよ。きっと、あなたのお母さんと同じくらいに」
ゆっくりと紡がれたその言葉は、ひどく暖かく優しい響きを持っていた。
「ほんとうに」
どれほどの時が経ったのか。何秒というほどしか経っていないのかもしれない、何十分と経っていたのかもしれない。シュリにはわかりはしなかったが、リヒトの口から漏れた言葉は、力ない響きをしていた。
「本当に、しつこい方ですね、あなたは」
「――そうよ。あなたがどれだけ嫌がってみせても、私はあなたを見放したりしないわ」
力強く言い放つ。まだリヒトの瞼は伏せられたままだったが、シュリは毅然とリヒトを見つめていた。
リヒトはその力強い言葉を受け止めるように頷いてみせて、ゆっくりと視線を上げて、少女の目を見返した。
「俺は近いうちに村を出ます」