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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
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負け惜しみの強い変わり者にくたばってしまえと言ってやる

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姉貴が彼氏と別れて、ぐっしゃぐしゃに泣いた後の顔で帰ってきた。そう、俺は予想した。黙って立ってる。姉貴はただ、黙って玄関先に立っている。どうして良いかわからずに、俺は玄関マットあたりを見つめる姉貴をぼんやり見てるだけになる。そんな俺の横を、頭一つ小さい母さんがスリッパの音をたてて、通り抜けていく。
「よっちゃん。雨、凄かったのね」
母さんが地蔵みたいに黙りこんでる姉貴に声をかける。玄関先に立ちっぱのその地蔵の雨でびしょぬれの頭と、涙で真っ赤な目元や濡れてる頬を拭きながら「おかえり」と口にする。
それに何かが揺り動かされたみたいに、姉貴の目から涙が次から次へと頬を伝って落ちた。タオルはそれすら優しく吸い取って、母さんは「よっちゃん、おかえり」ともう一度言った。

次の朝、姉貴はすっかりいつも通りの顔で朝からランニングに短パンでうろうろしてた。年頃の女の子が、という顔をするのは母さんやばあちゃんだけども、今日は二人ともいない。
「コンビニ?」と単語で聞いたこっちを向いて「そう、朝番」と返してきた。いつも通り過ぎて、なんだか妙だが気にすると怒られそうなのでやめておこうと思い冷蔵庫を開く。

そうして食料を漁っていると、後ろから白い腕が伸びてきた。これだけ言うとホラーみたいだから凄く嫌な気分だが、何のことはない家族の腕だ。白い腕の持ち主は兄貴だ、姉貴じゃない。ピアノを習って誰より長く続けた兄貴の指は細長い。なんだかんだで、十四年間続けていた。俺が同じところから手を伸ばしても、届きそうにないところにあっさり手が届いて、ペットボトルとサラダの小鉢をさらっていく。不健康すぎでしょ、などと朝からステーキもカレーもオッケー、なんてタイプの姉貴は言う。俺には、どっちもどっちだと思えるんだが。だけども放っておくと兄貴は食べないので、まだ食べるだけ良いと思われる。
食べない、というか。
食べる以前の問題で昼まで寝続けている。
だから、この時間帯に起きてることがそもそも驚きだ。
「……タバコくさっ」
そう言って顔をしかめた俺の寝ぐせのついてる髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてから、こっそり。
「ありゃ、やっぱわかる?」
バレないか、って思ったんだけどよ、なんて少しぼんやりした声で呟いた。少し声が小さいのは姉貴のことを考えてだろう、こういう気配りをさもなんでもないようにするあたりで、兄貴は女によくモテる。タバコは別に吸っておかしい年じゃない。大学四年目の兄貴の周囲は、タバコを吸う男が多いのも事実だ。だけれども、こうやってぼそりと言ったからには、理由がある。そしてそれを姉貴と俺は知っている。
兄貴は男のところに、行っている。
表向きは幼馴染というか表向きじゃなくても幼馴染なのは変わらないんだが、なんかプラスアルファでなんかしらあるらしい。姉貴に聞いたら「その内わかる。アンタは今は黙ってな」と言われた。
わかった、と頷いて数年後。
聞かなきゃ良かった、と思いつつも別にそこまで嫌悪できないあたりが、兄弟か、とも思うところだ。深くは追求しないでやってほしい、頼むからしないでくれ。相手の名前どころか結構細かい情報も知ってるが、そこはプライバシーってやつだ。俺が生まれた頃にはお互い仲良くやってたのが、いつの間にかそんなことになってやがった。だけども、中学高校と別々に彼女がいたくらいだから、ホントになんだかよくわからないのだ。

サラダをもしゃもしゃウサギみたいに食ってる兄貴の隣で、朝から肉やらジャガイモやらが、ごろんごろん入ってるカレーの二杯めを喰ってる姉貴がぽつり、と口にした。
「おじいちゃんに、会いたい」
出た、姉貴のじいちゃんっ子全開モード、じじコン。
「パパでも良い」
でも、って失礼だろ。今度はファザコン。
物理的に無理なのは、じいちゃんだ。
俺も兄貴も、もちろんばあちゃんも母さんも。父さんだってそうだ。死んだ人間に会える方法なんて、誰も知らないのだから。だけども俺は、時々仏壇の前で手を合わせたり墓参りに行って線香をあげてるばあちゃんを見ていると、方法は意外と身近な人間がしってるのかも知れないと思ったりもする。それが姉貴に可能かどうかは、別としてだ。ばあちゃんがよく、空中の何もないあたりを見てるということ。
それを、怖がりの姉貴に言ったら多分今すぐ半泣きにさせる自信がある。
「芳恵、父さんのとこなら送ってこうか」
「マジで! 送って、ケイちゃん!」
「……本気で行くのかよ」
あきれて息をついた俺と、視線がばっちりあった姉貴が「あたぼーよ」とか言って、拳を握った。
「てか、ケイちゃんもだけどさ。せっかくなんだからチーちゃんも、一緒に行こうよ」
パパ喜ぶよ、と言われて、ちょっと色素の薄い鳶色の瞳に見つめられて。昨日の姉貴の姿をぼんやりと思い出して、となると。
「わーかったって、行く行く」
そう言うくらいしか、選択肢が見当たらなかった。
てか、チーちゃんはいい加減やめてほしい。

兄貴の運転は、すばらしい。何がすばらしいって、乗り物酔いの激しい俺が酔わないくらいに、上手な運転なのだ。その兄貴が運転する車で乗り物酔いとは無縁の姉貴は、平気な顔をしてフォントサイズ8だとか9だとかの感じの本を読んでた。ちくしょう、俺だって漫画とか読みたいわ、とは思うが読んだら確実に酔うので、無謀なことはしないのだ、と黙っていた。
「……そういえばさー、彼氏にフられた」
 喉かわいたからコンビニ寄ってくんない、程度のテンションで呟かれたその姉貴の言葉に、兄貴が「そっか」とだけ返した。助手席と運転席の間に顔を突き出して話すなんてそんなことは、と思った俺は窓から見える海をぼんやり眺めるだけにしておいた。

 父さんは黒く焼けた顔で笑いながら、手をあげた。
「おう、芳恵。めずらしいな、恵司も千博も一緒か」
「パパ!」と走って飛び込んだ愛娘を、つい一年くらい前にぐるぐると抱きしめたまま回して、ぎっくり腰になった。それから懲りてぐるぐるをやっていないらしい父さんが、飛びつき癖は一向に治す気配がないらしい姉貴の頭を撫でながら手を上げた。
隣で「ひさしぶりー」と軽く左手をあげた兄貴の横で軽く会釈するようなことをしながら、俺は黙りこんでた。
どうにも、何をすれば良いかわからないので、だいたい姉貴がニコニコしてるのを俺は黙って見てる。時々「学校のこと」だとか「部活のこと」だとかは聞かれるけれども、だいたい「普通かな」だとか「いつも通りかな」程度の答えを返してばかりだ。
それとはまったく正反対に、姉貴は聞かれたことの三倍は喋ってる。おそらくこれは父さんのみならず、彼氏にもやってたことなんだろうと思う。姉貴は彼氏と別れる度に、よくファザコンっぷりを全開にしてこうして来ているようだった。