はるかな青空
【心の痛み】
おじさんの畑には土、日だけ寄るようになっていた。
ぼくは自分の不登校のことを話していなかったし、あれほどおしゃべりなさやかだって、
よけいなことは口にしない、律儀なところがある。
だから、おじさんもぼくが学校へ行っていると思っているんだ。
でも、次の日曜日はジョギングにも行かなかった。とてもそんな気分になれなかったんだ。
「おじさんが心配してたわよ」
さやかがうちにきた。
「なんか言った? おまえ」
「別に、今日は具合が悪いって言っておいた」
「そう。ありがと」
さやかはぼくが元気のないのを心配そうにしていたけど、何も言わなかった。
きっと、お母さんから谷川先生が家庭訪問に来たことを聞いたんだろう。
これまでも先生が来ると、その二、三日あとまでぼくの機嫌が悪いことをさやかも知っていたから。
月曜日の昼間、ぼくは、無性に新鮮な空気が吸いたくなった。クロをポケットに入れて自転車で橋を渡り、河原へ行った。
九月の半ばだというのに、残暑が強い。この時間ならおじさんはもう畑にはいないだろう。
畑の空気は吸いたかったけど、おじさんに会うのは気が引ける。
葦の茂みの陰から畑を見ると、おじさんは畑にいた。
ぼくはさっと身を隠した。つもりだったけど、しっかり見られた。
「ツトム君じゃないか」
ちょっとばつが悪かったけど、ぼくは立ち上がって、おじさんの方へ行った。
「具合はどうだい? もう起きていいのかい」
昨日、さやかがとっさについてくれたうそのおかげで、へんに思われなかった。
「まだ、日が強いから外に出ない方が……」
「ええ、でも、いい空気が吸いたくて」
「そうか。それもいいかも。でも、その木の下にいるといい」
その木はいつも休むのにちょうどいい日陰だった。
『まゆみ』っていう、女の子みたいな名前で、いつかへんなアブラムシみたいな虫をつかんだ木だ。
ぼくはポケットからクロを出すと、一番低い枝にとまらせた。
すると、クロはぱたぱたとはばたいて、木から飛んだけど、一メートルくらいで草の中に墜落した。
「ほんとにだめだな。すぐ墜落する」
ぼくがそう言ったのを聞いたおじさんが、
「ツトム君。だめだなんて言っちゃいけないよ。みんないろんな個性があるんだ。ツバメもそうだよ」
と、言った。
ぼくははっとした。そうだ。今、ぼくは谷川先生と同じことをしたんだ。
「ごめん、クロ。おまえはおまえなんだよな」
こんな小さなことでも差別はあった。ぼく自身ほかのツバメと比べて、クロをだめなやつだと決めつけていた。
このとき、ぼくはこれまで言うつもりのなかった谷川先生のことや不登校のことをはじめておじさんに話して見ようと思った。
「ぼ……」
と、言いかけたとき、おじさんの方が一瞬早く話し始めた。
「いや、わたしも人のことは言えないな。
昔は小さなことで子供を差別したり、怒ってばかりいた……」
「え?」
ぼくはおじさんの言葉に驚いた。
「戦前の教育を受けたわたしは、教員になってからもその影響を引きずっていたんだよ」
おじさんは遠くにかすむ海をみながら静かに続けた。
「昔は、教員が生徒を、とくに男の子をなぐるなんて普通だったから、わたしもそんな風に生徒に接していたんだ。おかげでどれだけの子供の心を傷つけたか……」
信じられない。とても子供が好きな人だと思っていたのに。
「子供が嫌いなわけじゃない。でも、個性を認めなかったんだ。みんな同じことをさせるのが教育だと思いこんでいた」
ぼくはただ黙って聞いていた。
「そのまま十数年続けてきて、ある時一人の子供にけがをさせてしまった。倒れたとき、机の角に頭をぶつけて意識不明になってしまってね。はじめてだった。子供の痛みなんて思いやっていなかったから、わたしはひどく狼狽した」
おじさんは目を閉じた。
「でもね。どれだけ罵倒されても仕方ないと覚悟してお見舞いに行ったら、その子のご両親はわたしを怒らなかった。それどころか許すと言われたんだ。怒鳴られたり、殴られたりするより強烈に心が痛かった」
そのことばは、ぼくの心にもずしんとした手応えがあった。
「心が痛い……って、優しい言葉でも傷つくの?」
「ああ、自分が悪いことをするとね……」
おじさんの目に涙が光った。
「わたしのうぬぼれはふきとんだよ。ごく普通のサラリーマンのその子のご両親の方がすばらしい教育者だった。わたしは子供を教育するとか、正しい道に教え導いてやるんだ、なんて思っていたけどまちがいだった。なにしろ、それまでわたしは生徒に好かれたことがなかったからね」
最後の方は声が震えていた。
おじさんがけがをさせた子は、奇跡的に回復して、今は教師をしているという。
それからおじさんは決して子供を殴らない先生になったそうだ。もし、殴ったら教師を辞めようと決意して……。
「でもね。自分でたてた誓いを破ってしまったんだ」
おじさんは自分の弱さを責めるように言った。
「万引きをしたり、同級生や下級生からお金をまきあげたりね。何度も注意するんだが、ちっとも言うことをきかない生徒がいた」
その子は、家庭にいろいろ問題を抱えていて、そのストレスから悪いことをしていたらしいんだ。
おじさんは更正させようと必死だったから、
ある日とうとう殴ってしまったんだそうだ。
「もっと家庭のほうにも目を向けてやれば、話し合うこともできたのに……。とにかく、自分の誓いを破ってしまったんだから、おじさんはやめたんだ。十五年前にね」
おじさんの話が終わると、ぼくの目にも涙がうかんでいた。
「でも、おじさん。同じなぐるのでも、最初と後のは違う意味があったでしょ。後のは仕方なかったんじゃない? 悪いことしてたんだから」
ぼくはおじさんを慰めようと思った。
「でも、殴るときのわたしの感情は同じだ。
怒りにまかせてなぐったのは。問題はそこなんだよ」
一息ついて、おじさんは言った。
「自分の感情をコントロールできないのは自分の弱さだ。そんな人間に他人を説得できるはずがないじゃないか」
確かにおじさんの言うとおりだ。
「ただ、三年ほど前、最後に殴ってしまったその子が、わたしを尋ねて来てくれたんだ。
そのときはうれしかったよ。『先生に殴られて目が覚めた。悪いことをして親を困らせるより、少しでも役に立つことをしようって、兄弟の面倒も見て、家の手伝いをするようになった。それで今では小さいけどお店をもっている』って、うれしそうに話してくれた。はじめて、殴ったことで子供を正しい道に戻せたんだ」
「よかった。じゃあ、最後のだけは無駄じゃなかったんだね」
ぼくはうれしかった。
「ねえ、おじさん。今度はぼくの話、聞いてくれる?」
それでぼくは自分が不登校だということを話し、谷川先生のことも全部話した。
おじさんはすごく心を痛めたようで、ときどき眉をひそめた。
「そうか。ツトム君は元気だからちっともそんな風に見えなかったよ」
「うちのお母さんの影響かもしれない。だって、お母さんたら、『明るく楽しい不登校にしましょ』なんて言ってるんだから」
「いやあ、それは正しいかもしれないね」