はるかな青空
【むずかしい課題】
いつのまにか九月が終わろうとしていた。
家のまわりのツバメたちも心なしかあわただしく飛んでいるような気がした。もうすぐ、最後の群れの渡りがはじまるんだ。
クロは夜、もうぼくのそばには寄ってこない。一人でタンスの上に止まって寝る。
部屋の中だけは自在に飛べるようになったけど、まだたどたどしく、窓が開いていても外へ行く気はなさそうだ。
「クロ、おまえ、ずっとぼくと一緒だよな」
クロは首をかしげてぼくをじっと見た。
まん丸な黒い瞳が愛らしくて、クロを見ていると心が安らぐ。
このときまで、ぼくは少しもクロと別れるなんて考えていなかったし、クロもここでの生活があたりまえだと思っているにちがいない、なんて思っていたんだ。
そんなある朝、ずいぶんツバメの数が増えたな、なんて思いながらぼくはジョギングからもどってきた。
「クロ」
いつものように部屋のドアを開けると同時に声をかけた。すると、クロはすぐにぼくの肩に飛んでくる。
なのにクロの姿がない! さっきまでは確かにいたのに。
「クロ? クロ!」
まさか? ぼくはベランダに出た。
見ると、何十羽のツバメが公園の上を旋回している。その一番後ろに、まだ弱々しい飛び方をするツバメがいるじゃないか!
「クロ!」
ひどいよ。クロ。飛んでいくそぶりも見せなかったくせに。さよならもしないで、勝手に行っちゃうなんて……。
「クロのバッカヤロー!」
ベランダでぼくは思い切り怒鳴った。
ならんで建っている団地のかべにこだました声が、いくつも重なって響いた。
すっかり秋の色になった空は、夏よりもずっと高く、遠くなったように感じて、クロのいないさびしさがよけい身にしみた。
夕方、ぼくは大橋をわたって対岸に行き、川岸に腰を下ろした。畑にはおじさんの姿はなかった。
川岸にはいろんな野鳥がいて、時折ツバメも飛んでいる。
クロがもしかしたらここに来ているんじゃないかと思ったぼくは、きょろきょろと辺りを見回した。
葦の葉がさやさやと風に揺れている。
「ツトム!」
竜二の声が聞こえたような気がした。見ると、自転車が二台、こっちへ向かってくる。
前は竜二で、後ろはさやかだ。
「おまえの家いったら、自転車ででかけたってきいて」
「きっと、ここだと思ったの。あたったわ」
ぼくは返事もしないで川の方を見た。二人はそんなぼくにあきれているふうだ。
「もう、元気だしなさいよ」
さやかはじれったそうに言って、ぼくの背中をばんとたたいた。
「いたいな。野蛮人」
「なによ。はげましてやろうと思ったのに」
「いいよ。おまえのはげましなんか」
悪態をつきながらも、いくらかぼくは気を紛らすことができた。
「まあ、がっかりするのはしかたないさ。あれだけかわいがったんだから。でも、クロは野生に目覚めたんだ。むしろ喜んで旅立つひなを見送る親鳥の心境にならなきゃ」
大人びた、説教くさい口調で竜二に言われたとき、ぼくは自分の本当の気持ちに気づいた。
一人立ちしたクロがうらやましいのと、自分だけが取り残されたみじめさで、ぼくはつらかったのだと。
その晩、お父さんが久しぶりに早く帰った。いっしょに夕食を食べているとき、
「この前、先生が見えたんだって?」
と、谷川先生の話になった。
「うん」
ぼくは思いっきりいやな顔で返事をした。
だけど、お父さんはかまわずに話を続けた。
「おまえが逃げたから、お母さんにあやまって、学校をやめるって言ってたそうだ」
「ほんと? いい気味だ」
ぼくは真の話を思い出し、内心、わくわくした。
「ツトム。本気でそう思うか?」
お父さんは箸をテーブルに置くと真顔になり、ちょっときびしい目でぼくをにらんだ。
ぼくはうつむいて、こくんと小さくうなずいた。
お父さんは何も言わず、ふっとため息をついた。すると、今度はお母さんが口を開いた。
「谷川先生、今度のことでPTAからもいろいろ言われたでしょう。どうも現場からはずされて出向させられるらしいの」
お母さんは気の毒そうに言ったけど、ぼくはうれしくなった。
「じゃあ、担任が替わるんだ。五年二組は平和になるね」
ところが、お父さんはそんなぼくをたしなめた。
「おまえの気持ちもわからなくはないが、先生は心から反省されたんだ。許すことも必要じゃないかな」
あいつを許すだって?
とんでもない。今まで何人の生徒が傷つけられてきたか!
ぼくがどんなひどいことをされたか、思い出すと涙がにじんでくる。
「ぼくは許さないよ。あんなやつ」
興奮してぼくは大声を出した。
「ツトム。もう一度、谷川先生にチャンスをあげないか」
「チャンスって、なんの」
ぼくはふてくされて聞き返した。
「五年二組の担任としてのチャンスよ。お母さん、お願いしたの。この学校でいい先生になってくださいって」
よけいなこと言って、と、のどまででかかった言葉をのみこんだぼくは、お母さんをにらみつけた。
「ごちそうさま!」
がちゃん。と、食べかけたご飯と箸を乱暴に置いたぼくは、部屋に駆け込むとベッドに倒れ込んだ。
(なんだい。ふたりとも、きれいごとなんか言って)
なにが許せだ。もう一度チャンスを、だ。あいつのいる学校なんか行けるもんか。
「もう、だいぶ落ち着いたから、そろそろ学校へ行ってもいいと思ったんだがな……」
ドアの向こうから、お父さんの声が聞こえた。
みんな、ぼくの気持ちなんかわからない。
お父さんのバカ! お母さんのバカ!
クロのおおばかやろう! ぼくをおいていくなんて。
涙があふれてとまらなかった。
ぼくだけがひとりぽっちで取り残されてしまったような気がして悲しかった。