研究員と少女の一日
結果としてその女とは別れてしまったから、それが正しかったのか、間違っていたのかは今でも良く分からなかったが。しかし、目の前の少女は違った。彼女は、例え一乃瀬の出した解が友嘉の望んだ、あるいは想定した答えと符合しなくとも、否定することはないだろう。無論反論もしない。それだけは間違いない。
彼女は他者の存在は否定しても、他者の思考には興味を抱く事はあれど思考そのものを否定することは無かった。だからこそ一乃瀬は、導き出した解をそのまま口に乗せる。
「俺ならば――殺さない。例えそいつがどれだけ憎くとも、殺してやりたいと思っても……否。そう強く思う相手こそ、殺しはしない。そんな相手如きにこの俺の手を汚すすような事は死んでもご免だからな」
相手の死が露見しない。それはどれほど甘美な誘惑だろうか、とは思う。けれど、そんな殺意を抱くほどの相手の為に自らの手を汚せる程、一乃瀬は真っ直ぐな人間ではなかった。どちらかといえば、捻くれた臆病者。その言葉の方が、一乃瀬にはピッタリくる。
目の前のこの幼き少女と比べたら、一乃瀬はずっと脆い。彼女のように迷いなく罪を断罪するような行為は、一乃瀬には一生かけても出来ないだろう。
友嘉は一乃瀬の返答を聴くと、いつものように表情一つ変えずに「ソウ」と呟いた。それから、もう興味を無くしたように――それでも敬愛する上司からの借り物だから故か、いつもよりも丁寧にその分厚い本を鞄の中へとしまった。しまった本の代わりに、今度はノートと筆箱を用意する。
どうやらようやく一乃瀬の授業を受ける気になったらしい。友嘉がこの部屋にやってきてから30分。いつもよりは早いペースだ。友嘉が授業を受ける準備を終えたのを見計らって、一乃瀬は黒板代わりに用意されたホワイトボードの前へと立つ。
毎回毎回、授業の前に行われる無意味な問答。それを一体彼女は、どう思い、どう感じているのだろうか。相変わらず真意は分からずとも、一乃瀬はその無意味な問答は決して嫌いではなかった。
さて、今日の一乃瀬の返答は彼女にはどう受け取られたのだろう。
それを知る機会は一乃瀬には与えられなかったが、それでも一乃瀬は構わなかった。
「さて、始めるぞ」
そう言って一乃瀬は水性のペンを手に取り、本日の授業を開始した。
<了>