エイプリル・フール
~第一章~
カレンダーをめくった。四月一日。寒さで頭がぼーっとし、手足もひどく冷えきっている。大きく開いたカーテンから差し込んでくる朝日が目をくらます。圭介はベッドから這い上がるなり、立ち眩みまで感じた。
しかし、これらは寒さのせいだけではなかった。今日は、彼にとって、彼の家族にとって、運命の日の始まりなのだ。緊張と不安で、昨晩は熟睡できずにいたのだ。
ばさばさした髪の毛を撫でなでながら妻の寝顔を確認し、圭介はそっと風呂場へと向かった。服を脱ぎ捨て、暖かいシャワーを浴びる。ごく普通のシャワーだ。湯気が冷え切った身体を癒すように包み込む。生き返るような暖かさ。今日も、普通の日が来るはずだった。
ロンドンでの春は、日本と比べ物にならないくらい寒い。今日に至っては、まるで真冬の様だ。木々もまだ寂しく葉っぱを生やさずに風に揺れている。公園の芝生も茶色く濁った色だ。昨日まではまるで梅雨のように雨が降っていたが今日は久々に透き通った快晴だ。この独特の寒さはそれ故の物だろう。
スーツの上にコートという格好で圭介は出勤した。街中から郊外への出勤という一風変わった生活を送っていたが、圭介は地下鉄で一本という会社と便利な位置関係に住まいを置け、満足していた。ロンドン・チューブ(地下鉄)は車内がやたら狭いため、朝の出勤時間はなかなか壮絶なものだ。圭介は毎日のように体のでかい外人と共に窮屈な思いで電車に揺られていた。
電車を降り、改札へと向かっていた時だった。後ろから、ポン、と軽く肩をたたかれた。同僚の桐島だった。
「よう、おはよう!今日は久々にいい天気だな・・・と、今日はそんな気分じゃないか。」
「他人事のように言わんでくれよ、お前もわかってんだろ。」
圭介は笑顔を作れず、ため息交じりで返事をした。桐島の緊迫感のなさにはいつも呆れる。桐島は小さく頷き、歩調を合わせて圭介と歩いた。
桐島には現在の事情を以前から説明していた。
五分ほど歩き、彼らは会社に着いた。決して一流企業のビルには見えないが、綺麗でこじんまりしたビルの側面には、銀色の大きいローマ字で「OGASAWARA TRADING CO.」と書いてあり、その真下に日本語で「小笠原貿易」とやや小さめな字で書いてあった。
圭介が会社の素性を知ったのはロンドンに転勤してからだった。貿易会社とはあくまでも表面上の名前であり、実際には情報機関として動いていたのだ。日本にいるときは、一般的な貿易会社として運営していたはずなのだが。
いや、自分が知らされていなかっただけだ、と圭介は思った。こんなに危ない仕事を一般入社の新人にやらせられるわけがない。今年で丁度入社十年目の圭介は、一昨年の夏、ロンドンに転勤になったのだ。
「おはようございます。」
会社に入るなり、圭介たちは声を掛けられた。
「おはよう、ジャイルズ。」
ジャイルズと呼ばれたヒョロリとした外人は、ニッコリして通り過ぎて行こうとしたが、桐島がそれを止めた。なにやら会話を始めた。純イギリス人なのに、日本語が驚くほどペラペラだ。圭介は二人を残し、自分の机のほうへと向かった。会社は暖房が効いていて暖かい。鞄を置き、コートを椅子にかけた。座ろうとした瞬間、声を掛けられた。
「大橋君、ちょっといいかな。」
上司である井上昌哲(まさてつ)さんだった。白髪のオールバックは老人に貫録と威厳のある雰囲気を漂わせた。
「えっと、今日はその・・・四月一日だよね。」
確認するような口調で切り出した。
「会議は九時からの予定だけど、社長が、皆が揃い次第始めるっておっしゃっているんだけど、構わないかな。」
「ええ、特に構いません。是非、宜しくお願いします。」
圭介は軽く頭を下げ、自分の席に腰を掛けた。全く落ちつけない。胃の中に砂利を流し込まれたような気分だ。しばらく何も考えずに座っていたら、コトンと音を立ててコーヒーをテーブルの上に置かれた。
「大橋さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ。」
心配するような表情を見せながら、圭介は後輩である女社員の杉上千春に顔をのぞきこまれた。
「それはそうと、会議の時間です。もう皆さんお揃いのようなので。社長がお呼びですよ。」
ハッとして圭介はあたりを見回した。だいぶ社内にはもう人が集まっていた。
「ああ、ありがとう。行きますか。」
圭介は千春と一緒に会議室へと向かった。その様子をうかがい、待ってましたと言わんばかりに何人かの社員が腰を上げた。
会議室には、自分を含め、六人の人が集まっていた。触り心地の良い木製の大きい会議机の端には見慣れたはげ頭が腰を掛けていた。社長だ。アルマーニのスーツを着こなし、金色のネクタイをつけたその姿は、やはりただ者とは思えない。スラットした体形にはよく似合う服をいつも来ている。はげ頭のせいか、髪の色は分かりにくく、スタイルのせいで多少若くも見えるが、実際は初老の男性だ。その社長が口を開いた。
「皆さま、お集まりのようで。さぁ、お掛け下さい。」
ぞろぞろと社員が椅子を引きだした。しかし、圭介はそれに倣わず立ったままでいた。社長も察したように説明を始めた。
「うん。今回はこの大橋君のための極秘任務なんだけどね。ちょっと、大橋君、説明できるかな。」
「はい。えっとですね、今回はちょっと大変なことに。実は、現在うちらの組織がある集団から脅迫を受けております。先週、ビデオレターが私の家に届きました。それがこちらです。」
圭介は鞄からビデオカセットをとりだした。会議室の傍らにあるテレビのスイッチを入れ、ビデオプレイヤーにビデオを差し込んだ。千春が気を使い、電気を消しに立った。
「今時こんな古いものを送りつけてきたのか。」
桐島が腕を組み、まじまじと圭介の様子を見ながら言った。
液晶画面に映し出されたのは画質の悪い背景だった。どうやらコンクリートの壁の様だ。雑音が響く中、マスクをし、拳銃を持った一人の男性が画面の中に歩いてきた。それに続き、二人の男性も入って来た。
画面を見つめる社員たちの目が見開いた。二人の男性は、目隠しされた少女を連れている。肩まであるストレートの黒い髪、今にも折れそうな華奢で細い四肢。両手には手錠がはめられている。日本人だ。最初の男が話し始めた。英語だ。
「小笠原の皆さん、どうもこんにちは。我々は、“ロンドン・アイ”だ。見ての通り、我々はこの少女の命を預かっている。その意味がわかるね?率直に言う。我々は君たちの所持する“宝”が目当てだ。この少女を生きて返してほしけりゃ、“宝”を我々に渡すことだ。期限は四月一日から五日間。宜しく頼んだよ。」
余韻もなくビデオがプツリと切れた。消灯していてすでに暗かった部屋が一層暗くなった気がした。部屋の空気は重くなり、沈黙がしばらく続いた。それを破ったのはジャイルズだった。
「あの、大橋さん。あの子は、もしかして。。。」
ビデオの中の怯えきった少女の様子が圭介の脳裏に焼き付いていた。彼の手はいつの間にか握り拳に変わっていた。
「そうだ、私の娘だ。」
~第二章~
「あのテロリスト集団は自分たちの居場所すら言ってなかったぜ。」
桐島がぶっきら棒に言い捨て、額に手を当てた。
「ロンドン・アイって名乗っていましたね。」
カレンダーをめくった。四月一日。寒さで頭がぼーっとし、手足もひどく冷えきっている。大きく開いたカーテンから差し込んでくる朝日が目をくらます。圭介はベッドから這い上がるなり、立ち眩みまで感じた。
しかし、これらは寒さのせいだけではなかった。今日は、彼にとって、彼の家族にとって、運命の日の始まりなのだ。緊張と不安で、昨晩は熟睡できずにいたのだ。
ばさばさした髪の毛を撫でなでながら妻の寝顔を確認し、圭介はそっと風呂場へと向かった。服を脱ぎ捨て、暖かいシャワーを浴びる。ごく普通のシャワーだ。湯気が冷え切った身体を癒すように包み込む。生き返るような暖かさ。今日も、普通の日が来るはずだった。
ロンドンでの春は、日本と比べ物にならないくらい寒い。今日に至っては、まるで真冬の様だ。木々もまだ寂しく葉っぱを生やさずに風に揺れている。公園の芝生も茶色く濁った色だ。昨日まではまるで梅雨のように雨が降っていたが今日は久々に透き通った快晴だ。この独特の寒さはそれ故の物だろう。
スーツの上にコートという格好で圭介は出勤した。街中から郊外への出勤という一風変わった生活を送っていたが、圭介は地下鉄で一本という会社と便利な位置関係に住まいを置け、満足していた。ロンドン・チューブ(地下鉄)は車内がやたら狭いため、朝の出勤時間はなかなか壮絶なものだ。圭介は毎日のように体のでかい外人と共に窮屈な思いで電車に揺られていた。
電車を降り、改札へと向かっていた時だった。後ろから、ポン、と軽く肩をたたかれた。同僚の桐島だった。
「よう、おはよう!今日は久々にいい天気だな・・・と、今日はそんな気分じゃないか。」
「他人事のように言わんでくれよ、お前もわかってんだろ。」
圭介は笑顔を作れず、ため息交じりで返事をした。桐島の緊迫感のなさにはいつも呆れる。桐島は小さく頷き、歩調を合わせて圭介と歩いた。
桐島には現在の事情を以前から説明していた。
五分ほど歩き、彼らは会社に着いた。決して一流企業のビルには見えないが、綺麗でこじんまりしたビルの側面には、銀色の大きいローマ字で「OGASAWARA TRADING CO.」と書いてあり、その真下に日本語で「小笠原貿易」とやや小さめな字で書いてあった。
圭介が会社の素性を知ったのはロンドンに転勤してからだった。貿易会社とはあくまでも表面上の名前であり、実際には情報機関として動いていたのだ。日本にいるときは、一般的な貿易会社として運営していたはずなのだが。
いや、自分が知らされていなかっただけだ、と圭介は思った。こんなに危ない仕事を一般入社の新人にやらせられるわけがない。今年で丁度入社十年目の圭介は、一昨年の夏、ロンドンに転勤になったのだ。
「おはようございます。」
会社に入るなり、圭介たちは声を掛けられた。
「おはよう、ジャイルズ。」
ジャイルズと呼ばれたヒョロリとした外人は、ニッコリして通り過ぎて行こうとしたが、桐島がそれを止めた。なにやら会話を始めた。純イギリス人なのに、日本語が驚くほどペラペラだ。圭介は二人を残し、自分の机のほうへと向かった。会社は暖房が効いていて暖かい。鞄を置き、コートを椅子にかけた。座ろうとした瞬間、声を掛けられた。
「大橋君、ちょっといいかな。」
上司である井上昌哲(まさてつ)さんだった。白髪のオールバックは老人に貫録と威厳のある雰囲気を漂わせた。
「えっと、今日はその・・・四月一日だよね。」
確認するような口調で切り出した。
「会議は九時からの予定だけど、社長が、皆が揃い次第始めるっておっしゃっているんだけど、構わないかな。」
「ええ、特に構いません。是非、宜しくお願いします。」
圭介は軽く頭を下げ、自分の席に腰を掛けた。全く落ちつけない。胃の中に砂利を流し込まれたような気分だ。しばらく何も考えずに座っていたら、コトンと音を立ててコーヒーをテーブルの上に置かれた。
「大橋さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ。」
心配するような表情を見せながら、圭介は後輩である女社員の杉上千春に顔をのぞきこまれた。
「それはそうと、会議の時間です。もう皆さんお揃いのようなので。社長がお呼びですよ。」
ハッとして圭介はあたりを見回した。だいぶ社内にはもう人が集まっていた。
「ああ、ありがとう。行きますか。」
圭介は千春と一緒に会議室へと向かった。その様子をうかがい、待ってましたと言わんばかりに何人かの社員が腰を上げた。
会議室には、自分を含め、六人の人が集まっていた。触り心地の良い木製の大きい会議机の端には見慣れたはげ頭が腰を掛けていた。社長だ。アルマーニのスーツを着こなし、金色のネクタイをつけたその姿は、やはりただ者とは思えない。スラットした体形にはよく似合う服をいつも来ている。はげ頭のせいか、髪の色は分かりにくく、スタイルのせいで多少若くも見えるが、実際は初老の男性だ。その社長が口を開いた。
「皆さま、お集まりのようで。さぁ、お掛け下さい。」
ぞろぞろと社員が椅子を引きだした。しかし、圭介はそれに倣わず立ったままでいた。社長も察したように説明を始めた。
「うん。今回はこの大橋君のための極秘任務なんだけどね。ちょっと、大橋君、説明できるかな。」
「はい。えっとですね、今回はちょっと大変なことに。実は、現在うちらの組織がある集団から脅迫を受けております。先週、ビデオレターが私の家に届きました。それがこちらです。」
圭介は鞄からビデオカセットをとりだした。会議室の傍らにあるテレビのスイッチを入れ、ビデオプレイヤーにビデオを差し込んだ。千春が気を使い、電気を消しに立った。
「今時こんな古いものを送りつけてきたのか。」
桐島が腕を組み、まじまじと圭介の様子を見ながら言った。
液晶画面に映し出されたのは画質の悪い背景だった。どうやらコンクリートの壁の様だ。雑音が響く中、マスクをし、拳銃を持った一人の男性が画面の中に歩いてきた。それに続き、二人の男性も入って来た。
画面を見つめる社員たちの目が見開いた。二人の男性は、目隠しされた少女を連れている。肩まであるストレートの黒い髪、今にも折れそうな華奢で細い四肢。両手には手錠がはめられている。日本人だ。最初の男が話し始めた。英語だ。
「小笠原の皆さん、どうもこんにちは。我々は、“ロンドン・アイ”だ。見ての通り、我々はこの少女の命を預かっている。その意味がわかるね?率直に言う。我々は君たちの所持する“宝”が目当てだ。この少女を生きて返してほしけりゃ、“宝”を我々に渡すことだ。期限は四月一日から五日間。宜しく頼んだよ。」
余韻もなくビデオがプツリと切れた。消灯していてすでに暗かった部屋が一層暗くなった気がした。部屋の空気は重くなり、沈黙がしばらく続いた。それを破ったのはジャイルズだった。
「あの、大橋さん。あの子は、もしかして。。。」
ビデオの中の怯えきった少女の様子が圭介の脳裏に焼き付いていた。彼の手はいつの間にか握り拳に変わっていた。
「そうだ、私の娘だ。」
~第二章~
「あのテロリスト集団は自分たちの居場所すら言ってなかったぜ。」
桐島がぶっきら棒に言い捨て、額に手を当てた。
「ロンドン・アイって名乗っていましたね。」