アンバランス
政府の印が捺された封筒。縁の部分には美しい金の装飾が施されていて、ひときわ目立っていた。
郵便物をはこんできたセスが穿鑿の眼差しを向けてきたが、無視した。空になったコーヒーカップを渡され、セスは不満げに顔をしかめたが、なにもいわずに退いた。
ベルが鳴って、新しい客が店に入ってきた。背が高く、彫りの深い顔立ちの若い男。セスの姿を見つけ、手を上げてみせる。セスはわたしのコーヒーを注ぐ手を止め、ちかづいてきた彼を抱き寄せてキスした。
店にはほかにも客がいたが、咎める者はなかった。それどころか、カウンターに並んで座って身を寄せあったり、指を絡めて笑いあったりしているカップルもある。すべて男同士だった。
窓から外を見ても、歩いているのは男ばかりで、女性の姿はほとんど見られない。
他国の人々の目にはさぞや奇異な光景に映るだろう。わたしたちの住むこの小さな島国では、百年ほど前、原因不明の難病が蔓延し、以降、女児の出生率が激減した。女性の数は減りつづけ、約五千人の総人口のうち、今では二百人ほどしかいない。
国の秩序と血統を守るため、政府はすべての女性国民を隔離保護する法案を定めた。いくらでも種を撒くことのできる男とちがい、女は一年に一度しか出産できない。男たちの欲望の犠牲になることなく、よりよい子孫を残すため、性別による完全な住み分けが必要になったのだ。
国土は山を挟んでふたつに分けられ、それぞれの側に男女が分かれて生活することになった。巨大な壁には護衛と監視システムが一日中目を光らせていて、政府発行のパスなしに行き来することはできない。結婚という制度は排除され、政府と女たちの目にかなった男だけが女性側へ招かれ、生殖に励む。生まれた子供が男なら父親とともに反対側の領域に、女の場合は母親のもとでたいせつに育てられる。
貴重な存在である女性のほうが恵まれた環境であったことはいうまでもない。女性に課せられた仕事は出産のみで、労働は男性に任せられ、税金として徴収する金や食糧はすべて女性たちにあてがわれた。
もともとたいした資金力もない小さな国である。女性たちの環境を守るための税金が年々上がっていくいっぽうで、男性側の生活水準は極端に低かった。
もちろん、反発がないわけではなかったが、女たちを失うということは、国が滅びるということである。本能的なフェミニズムも影響してか、今のところ、大きな暴動が起きたことはない。性的バランスを失った国が滅びるのは時間の問題だろうが、とりあえず、今はこうして平和に暮らしていられた。
本能という意味では、性的欲求が制限されたことも、国の文化に大きな影響を与えている。とりたてて魅力のない島国に観光客が訪れることはなく、女性とのセックスを実現するためには国を出るしかなかったが、高価な船代を手にするだけの資金を持つものはすくない。わたしよりもいくつか年嵩の世代からはすでに生の女の姿を知らず、当然、性行為の経験も持っていなかった。
男だけの国。他国ではホモセクシュアルと呼ばれて差別される行為も、ここではいたって日常的なことだった。正常な性行為に及びたくとも、女がいないのだから、どうにもならない。政府も理解を示し、同性同士の結婚もすでに公認されていた。そういったことに寛容であることにより、反乱を抑えるつもりだったのかもしれない。とにかく、傍目にはどうあれ、小さな国の秩序はかろうじて保たれていた。
ようやくセスがコーヒーを持ってきた。ひらいていた新聞をテーブルの隅に押しやり、一口啜った。薄めのコーヒーにひとかけらの砂糖。セスは毎週火曜の朝にやってくる老人の好みをすっかり飲みこんでいた。
独り身で病気がちなわたしを、彼は未経験のまま死んでいくのだと憐れんでいるかもしれない。わざわざ説明してやる気はないが、わたしにも一度だけ、他人の肌に触れた記憶がある。
バターナイフで封を切り、手紙をひらいた。よい報せでないことは、すでにわかっていた。
今度イヴォの名を耳にするときは、彼が死んだときだろうと思っていた。その予想は見事に的中した。
門番にパスを見せ、重い扉の向こう側に入った。“女の世界”に足を踏み入れるのははじめてだった。
案内してくれたのは赤毛の少女だった。黒いベールに包まれた顔ははっきり判別できないが、美しい娘だった。彼女のあとについて入った部屋にはシャンデリアがきらめき、大理石の床はこつこつと軽やかな靴音を立てた。
部屋の最奥に位置する巨大な椅子の上に、女王マーガレットが座っていた。この国の女性は男よりもはるかに寿命が短いが、彼女はすでに八十を越える年齢になっていた。これまでに九人の子を産んでおり、そのなかに女児が三人もいた。奇跡の女王と呼ばれ崇められているマーガレットの姿は、彼女に好意を持っていないわたしの目にも神々しく映った。
案内係の少女が退き、室内にはわたしと彼女のふたりだけになった。わたしは恭しく片膝をつき、頭を垂れて女王への敬意を示した。
「頭を上げなさい」
透き通った声で女王はいった。ゆったりと立ち上がり、わたしの前に立った。
「きてくださって、ありがとう」
抑揚を欠いた声。わたしは顔を上げて、彼女の青い目を見つめた。
「ずっとあなたにお会いしたいと思っていました」
女王の合図で、再び扉がひらいた。四人の女たちが大きな棺を押して入ってきた。細い腕が蓋を開ける。棺のなかには白髪の男が胸の前で指を組んだ状態で横たわっていた。
別れたとき、イヴォは十八歳だった。今の彼は六十二歳。白く乾いた顔にはうっすらと面影があり、目は閉じられていても、太い眉にはその意思のつよさがいまだ残っていた。
手紙によると、心臓発作で、死は突然のことだったという。皮肉なものだ。わたしよりも先にこの世を去ってしまうとは。
「もっと早くあなたに返すべきでした。ゆるしてください」
女王の言葉に、わたしは無言でうなだれた。予想していたこととはいえ、こうして彼の遺体を目の前にすると、足が震えて立っているのも困難になっていた。パスの入った封筒が汗でじっとりと湿っていく。
政府からの手紙を受け取るのは二度目だった。最初の手紙は両親の名に宛てられていた。
女たちに種を与える男として選ばれることは、これ以上ない名誉であり、また、不自由のない生活を約束されることであった。すぐれた知性と若さ、良識ある家庭と家系を持ち、人間的にも卓越した男のみが指名され、“女の世界”へと招待される。その特別な男を選ぶのは権力者や有識者で構成された専門の団体である。
イヴォは運動能力こそすぐれていたが、学校の成績は中の下程度だった。本来なら選ばれるはずはなかったが、マーガレットの独断で“父親”としてふさわしいと判断されたのだった。彼女はすでにふたりの女児を出産しており、そのうちのひとりも女児を妊娠していた。その頃彼女は四十を越えていて、常識的に考えても、もう子どもは産めないだろうと考えられていたのだ。これまでの功績に対する最後にして唯一の褒章として、自ら相手を選ぶ特権が与えられた。適齢期をすぎた彼女は知力よりも体力を求め、国主催の剣術大会で優勝したイヴォを見初めた。