天上万華鏡 ~現世編~
春江は庄次郎への未練を断ち切ろうとするかの如く泣きながらその場から離れた。
春江は後ろ髪が引かれながらも力一杯走り抜けた。監禁されていた部屋から廊下に出て、階段を駆け下りると、目の前に大きな玄関が目に映った。外に通じるドアは閉じられていたが、難なくすり抜け大通りに出た。
この大通りは春江にとって馴染みのない場所だが、あてもなく走り抜けた。
春江は全力疾走しても息一つ乱さなかった。更に肉体を伴っている時の数倍の速さで走っている。これは春江の体が幽体だからである。
死後の体である幽体で行動している春江は、生前とは全く違った法則に縛られていた。それは思いの強さがエネルギーになるということである。
今の春江は、自殺した洋館から一刻も早く立ち去りたいと強く思った。その思いが走り続けるエネルギーになったのである。それが常識を越える速さで駆け抜けることを可能にした。
春江はなおも走り続けた。周りの風景はこの時代どこにでもあるありふれたもの。
着物を着た女。軍服を着た青年。荷物を載せた馬車。野菜を売っている商人。どこにでもある風景である。
そのため春江は、何も疑いをもたずに走り続けることができた。しかし、暫くすると様子が変わってきた。
首がない女。逆に首が3つある男。地面を獣のようにはい回る老婆。人の顔をしている蜂の大群。狂ったように飛び跳ねている少年。
街の雑踏に混じって、ありとあらゆる場所からうめき声と絶叫がうねりとなって響き渡る。
程なくして春江もその異変に気付いてきた。何かおかしいと思いながらも、足を止めなかった。しかし、あるものが目に飛び込み、完全に立ち止まることになる。
「あ……あ……蜘蛛……蜘蛛なのに……ああぁぁぁ!」
全長が三メートルもあろうかと思うほどの大きな蜘蛛が、春江の行く手に立ちはだかったのである。この蜘蛛は常識を遙かに超える大きなもの。しかし、その大きさに春江は驚愕したのではない。この蜘蛛に、大きな人間の顔がついていたのである。
「う……う……うぴょめちゅめみゅぽりゅち」
言語と言えないほど意味不明の音を発した。この異常性が余計、春江を恐怖の淵へ追い込んだ。
更に、口から粘着質の液体を垂れ流し、ねちゃねちゃ音を立てた。その粘液を春江に飛ばし威嚇する。しかし春江には届かない。蜘蛛男は粘液では春江を威嚇できないと悟ったのか、急に駆け出し春江を襲おうとした。
「え? え? きゃーーーーー!」
春江は無我夢中で蜘蛛男から逃げた。すると鎧をまとった男とぶつかった。
「ごめんなさい……きゃーーー!!」
その男の腹は割け、中から小腸が飛び出していた。
「うぅぅぅぅ……ひ……で……よ……し……め……………」
呪文のように呟いている。焦点は定まっておらず、ふらつくように何となく歩いているように見える。
「ちょ……腸が……飛び出しているのに……どうして歩いている?」
春江はこの小腸が飛び出している武士の異常さを目の当たりにして、もしやと思い、辺りを見渡した。
「もしかして……化け物だらけ?」
その予想は的中した。目の前にいた蜘蛛男や腸出し武士だけではなかった。見渡す限り異形なる者に溢れていた。そこを、生きている人間が、何も気付かず当たり前に歩いている。
霊的な存在のほとんどが異形なる者であった。姿が異形であるのは勿論のこと、精神までも歪んでしまっている。
生前と同じような姿でいるのは自分ぐらい。今の春江は人間の心や姿をもちながらも人間とは交われない。異形なる霊的な存在は自分を脅かす存在であり仲間ではない。ましたしても春江は世界から拒絶された。
春江は途方に暮れながらも、とにかく歩き続けるしかないと、諦めにも似た気持ちで歩き続けていた。すると、春江に声をかける存在が現れた。
その存在は何度も同じ言葉を繰り返す。
「あなたは自殺しましたね?」
「軍人さん?」
そう呟くこの存在。軍服を着ているが、その当時の軍服ではない。だからこそ春江は軍人かと思いつつも、断定することができなかった。鼻下やあごには手入れされた立派な髭がある。眼光鋭い初老の男である。
この男の名は仁木龍生(にきりゅうせい)春江の運命を握る人物であった。
作品名:天上万華鏡 ~現世編~ 作家名:仁科 カンヂ