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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~現世編~

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 光を浴びても痛みなどの感覚が全くなかった。ただ光が当たっているだけである。
 と思った瞬間、それらの光が春江の体の中に入り込んできた。春江は自分の血管の中に光が入ってきているような錯覚に襲われた。
 脳や心臓にまで進入したと思える程、光が体中に巡った頃、その光は大きくはじけた。そのため、春江の目の前は強烈な光に包まれた。
 眩い光の中で、春江は大きな揺れを感じていた。その揺れは更に大きくなる。しかし春江はふらついたり、地面に手をついたりすることはなかった。この大きな揺れは地面が揺れているというより、世界そのものが揺れていると感じるものだったからである。
 大きい揺れから、小刻みで素早い揺れに変わった。体全体が激しく揺れ始めると、春江は意識が遠のいた。
 その頃、春江の肉体は青黒く変色し始め、人間というよりモノになっていった。もう命は尽きたのだと誰の目にも明らかになってきた。
 暫くして、春江の肉体の後頭部辺りから銀色のホースみたいな紐が飛び出した。これはシルバーコードといって、肉体と死後の体、つまり幽体とを結ぶものである。これが切れた時、人間は死んでしまう。
 シルバーコードが飛び出した後、その飛び出す勢いで死後の体である幽体も姿を現した。当然だが、幽体は生前の春江……つまり肉体と同じ形をしていた。
 幽体が完全に肉体から出た後、シルバーコードが細かく振動し始めた。その振動のせいで次第次第にほつれ始めた。
 ついには……完全に切れてしまった。
 春江が感じていた揺れとは、このシルバーコードがほつれて切れる振動であった。春江の意識が戻ったのはシルバーコードが完全に切れた後だった。
 春江はゆっくり目を開けると、自分の後頭部が目の前にあった。これまで不思議な世界に舞い込んでいたのに、急に現実に引き戻された。
 目の前の自分。人ではなく、肉の塊になった自分。てるてる坊主のように力なくぶら下がっている自分。そんな自分を見つめる春江は、自分が確かに死んだのだと実感した。
「私は何? 幽霊になったの?」
 ここにきて、やっと自分を取り巻く状況を理解できた春江であった。死んでもなお自分の物語は終わっていなかった。これからも果てしなく続く。
 未知の世界に踏み入れた不安。庄次郎との別れによって植え付けられた孤独感。ありとあらゆる負の感情が春江を取り巻いた。
 その時、部屋に二人の男が入ってきた。男達は春江の変わり果てた姿を見て慌てふためいた。
「おい! どうして目を離していたんだ! こんなことになっては元も子もないじゃないか!」
「まさかこんなことになるとは思っていなかったから……」
「城島夫人が死んだとなると交渉する余地がなくなってしまうじゃないか!」
「こうなったら……死んだことがばれないように……あくまでも生きていると……」
「……そうだな……」
 この二人は春江を誘拐した犯人である。
 庄次郎が春江を大事にしていることは、軍部の中で知れ渡っていたことであった。陸軍一のおしどり夫婦としてはやし立てられることもしばしばあった。
 春江を人質にすれば、庄次郎との交渉に使える。庄次郎を政治的に利用しようとする輩からすれば春江は絶好のカモであった。
 そのため、春江は生きていてこそ利用価値があるのであり、死んでしまっては全てが水泡に帰す。予定外の事態に二人は途方に暮れた。
 しかし、この二人の誤算はこれだけではなかった。
――――ドン!
 ドアが蹴破られ、軍服姿の男が現れた。その男の名は「城島庄次郎」春江の夫である。
 その姿を見た春江は目を疑った。どうしてここへ来られたのか。庄次郎にこの場所は知らされていないはずだ。誘拐犯が交渉相手に隠れ家がばれるようなことはしない。なのにここに来た。もう会えないと思っていただけに、この今の状況をどう理解すればよいのか戸惑った。
「生田次郎! 難波大介! 春江を返してもらおう……か?」
 庄次郎は首を吊っている春江の姿を見つけて言葉を失う。
「貴様ぁぁ!」
 庄次郎は絶叫しながら二人に突進していった。二人とも庄次郎の急な登場に腰が引けていた。そのため、庄次郎の攻撃に対応できずにいた。
 庄次郎は、春江の側にいる誘拐犯にターゲットを絞り、顔面を力一杯殴った。そしてすぐさま春江の元へ駆け寄った。
「春江!」
 庄次郎は春江にかかっているロープを解き、頸動脈に指を当て、脈を診た。やはり脈がない。春江は死んでいる。死後硬直が始まり皮膚が硬くなり始めていた。この異質感もまた春江は死んだのだと実感する手がかりとなった。
 庄次郎は春江をゆっくり抱きしめた。そして犯人を目の前にしながら声を立てて泣き始めた。
 その様子を春江はじっと見つめていた。自分の肉体を抱きしめて庄次郎が泣いている。自分が庄次郎を悲しませたのだ。この事実が春江を苦しめる。
 誘拐犯達は我に返り、庄次郎に襲いかかった。庄次郎は涙を怒りに変え、春江をゆっくり床に置くと、向かってきた一人の足下を蹴り転倒させた。その後すかさず腹を蹴り続けた。誘拐犯は、血を吐きながらのたうち回った。それほど強く蹴り続けたのである。
「貴様ら許さん! 絶対に許すものか!」
 背後からもう一人が殴りかかる。すると庄次郎はすかさず懐から拳銃を取り出し突きつけた。動きが止まる誘拐犯。
「貴様は軍人の誇りも忘れたのか! 自分の主張を叶えるために女に手をかけるまで落ちたのか!」
「俺は殺していない……城島夫人自らが……」
「黙れ! 春江は死んでいるじゃないか!」
 庄次郎は誘拐犯の太ももを撃った。
「う……」
 崩れ落ちる誘拐犯。庄次郎は急いで駆け寄り崩れ落ちる直前の顔面を蹴り上げた。そして、馬乗りになって顔面を何度も何度も殴りつけた。
「庄次郎様! おやめください! 死んでしまいます!」
 春江は庄次郎に語りかけたが、その言葉は届かない。庄次郎は再度春江の肉体の元に歩み寄り、そっと抱いた。
「春江! どうして……自分の存在が俺の邪魔になるとか思ったのか? そんなはずないじゃないか。私は何があっても死なない。何があっても屈しないと常々言っていたじゃないか! こんな事で挫ける私ではなかったのだ!」
「庄次郎様……どんな些細なことであれ、私はあなたの足かせになってはならないのです」
 しかし、その声は庄次郎に届かない。それを察してか、春江は無性に悲しくなり、ふと庄次郎にふれようとした。
「聞こえないのですね……住む世界が変わってしまったのですね……あなたのお姿をこんなに近くで眺めているのに、もうその距離は万里の先より遠くなってしまったのですね……」
 春江は庄次郎にふれようとしてもすり抜けてしまう。そうなのだ。自分の肉体はあの死体。自分は幽霊なのだ。
 庄次郎は目の前にいるのに自分の声が届かない。そればかりか、ふれることもできない。もうこの世界の住人ではないのだ。ただ眺めることしかできなくなったのだ。
 春江は死の直前、庄次郎との再会を切望した。しかし、こういう形での再会は残酷なものだった。
「庄次郎様……お別れです。庄次郎様……これであなたを縛る物は何もありません。ご存分にお仕事を全うなさいますよう、天からお祈り申し上げます」