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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~現世編~

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 親子の契りを交わした二人は、より一層絆が深まり、それが千回詣に対する力になった。自分には見守ってくれる人がいる。これまで父親の愛情を知らなかった春江にとって、それは大きな励みになった。
 春江は、千回詣を順調に乗り越えていった。一回目は何度も挫けそうになったものだが、十回目を越した辺りからゆとりが出てきた。まず、圧力と灼熱を感じなくなった。そして石段の針も、血だらけになりながらも鼻歌を歌いながら駆け上がっていった。勿論、岩石が降ってきても、全く避けもせず、そのままぶつかっていった。水中を歩いても抵抗を感じずに当たり前に歩いていった。
 ベリーは、春江の人間性を推し量った一回目以降、龍の姿で相対することはなかった。そのため、四の鳥居エリアは、専らベリーと雑談をして、近況報告する時間になった。
 しかし、それでは穢れを祓う試練にならないと判断したベリーは、独自に訓練プログラムを作成し、春江にそれを科すのであった。それはいわゆる瞑想であり、世界と一体化し、我から離れると言う、春江が無意識にしていたことであった。
 千回詣を乗り越える度に体は傷つき、見るも無惨な姿になっていったが、その目は生気に満ち、笑顔が絶えなかった。
 夜は千回詣。昼は浜辺でバイオリンという過酷な生活が数ヶ月続いた。しかし、春江は少しも苦にならなかった。何故なら、千回詣によって成仏し、天使に近づくことができる。バイオリンで異形なる者達を癒して少しでも救うことができる。どちらも自分の夢に近づくことだった。
 自分が行動することで確実に夢へ近づいている事を実感している春江にとって、それらが苦になるはずもなかった。
「あー死んじゃいそう」
 千回詣を終えたばかりの春江が言う。しかし、その言葉には悲愴感の欠片もない。
「もう死んでいますけどね」
 そう仁木が言うと二人は、笑った。いつもそんな会話だった。
 その後、すぐに浜辺に行く。バイオリンを弾くためである。
 午前十時。これが決まって浜辺に行く時間であった。だから、この時間になると、どこからともなく異形なる者達が集まり、春江の演奏を待っていた。
 春江が浜辺に到着すると、浜辺に集まっていた異形なる者達から歓声が上がる。口々に、
「春江様!」
「春江様!」
 と、春江の名前を口にする。それだけ春江の演奏を心待ちにしているのである。
「お待たせしました」
 と言って一礼すると、早々に演奏を始める。まずは、皆に馴染みがあろう童謡から始めるのであった。
「海」
「紅葉」
「富士山」
 その後は春江が得意とするシューベルトやモーツアルトに移っていく。途中、埴生の宿を演奏する時は、仁木を引っ張り出して、歌わせる事もあった。そして最後は決まってシャコンヌだった。
 春江はシャコンヌのメロディが、自分に似ていると思っていた。自殺をした自分。それで絶望した自分。でも、仁木や天使たちに励まされ夢をもつ事ができた自分。
 それらがシャコンヌを弾くとしみじみと思い出される。だからこそ、シャコンヌを演奏している時は特に気持ちがこもっていった。
 春江は千回詣を乗り越える度に、その身は光に包まれた。それは、コノハナサクヤヒメが言った通り、穢れを祓い、その精神性が高まる程に、それが威光となって表れた。言い方を変えれば、後光であろうか。精神の状態が姿に表れる世界である。精神が壊れ、落ちていくと異形なる者へ。逆に精神性が高まっていくと、威光をまとい、神々しくなるのである。
 バイオリンを演奏することによって、その威光が音楽に乗り、異形なる者達に染みわたっていった。元々春江のバイオリンは、異形なる者達の心を癒し、浄化する効果があったが、千回詣によって、穢れが祓われていくと、その力が更に高まっていった。
 異形なる者達は、例の如く浄化され、光輝きながら、生前の美しい姿に変わっていく。その度に天使が降臨して、成仏の道を示していた。自殺者に対しても、成仏できないまでも、歪んだ精神が矯正され、姿までも生前のものになっていった。
 この浜辺に集まるのは、救いを求める異形なる者達だけではなかった。千回詣を達成し、無償で異形なるものたちを救おうとしている稀な存在である春江を一目見ようと、非番の天使も演奏している様子を見物に来ていた。天使たちは、春江の演奏で、次々に浄化されている様子を見て、皆、絶句する。そして噂が噂を呼び、天使たちの見学者も百人を超えていた。
 春江を包むまばゆい光。愛情溢れる演奏。多くの天使の見守り。
 それらが相乗効果になって、異形なる者達を救おうとする慈悲に満ちた空間になっていた。いつしか、異形なる者達は、春江にひれ伏すようになった。ある時、そのうちの一人が呟いた。
「菩薩様だ」
 その言葉を聞いた他の者達は、大きく頷き、続けて言った。
「そうだ。菩薩様だ」
「俺たちを救ってくれるなんて菩薩様以外あり得ない」
「春江菩薩様!」
 天使達もこれらの発言に口を挟まなかった。そう呼ばれるに相応しいと判断したからであろうか。
 しかし春江は戸惑っていた。
「私が菩薩様だなんて……罰が当たります」
「いいえ。あなたは菩薩様だ」
 もう春江にも止めることができなかった。春江は、菩薩と呼ばれることに違和感を感じていたが、それ程人の助けになっているのは確かだという実感をもち、うれしくなった。
 頑張れば頑張る程、人の役に立つことができる。春江は、更に生きがいを見出そうとしていた。
 春江が引き起こした奇跡を、仁木は微笑みの中で見つめていた。初めは様々な問題があったが、今では全てを乗り越え、順調に事が進んでいる。仁木は今の状況に安心しつつも、こんなにうまくいっていいものかと思った。
 そこへ保護観察官である、李がやってきた。
「仁木君。いいか?」
「ああ、李君か。この間は申し訳なかった」
 仁木と李は知り合いだった。
「いや、いいんだよ。君のことだから何か事情があるのだろうと思ったからな」
「あの時は、春江の前だったから……」
 李は天使特有の公的な話法をしなかった。素の天使は人間と変わらない話し方をする。しかし人間と接する際は、その威厳を示すために、あの口調をしなくてはならないのである。
「ところで仁木君」
「何だ?」
「どうして帰還しないのか?」
「……もう少し……もう少し待ってくれないか?」
「私は構わないが、それでは君の立場を悪くするぞ」
「分かっている。分かっているんだが、私にはどうしてもやらなくてはならないことが……」
「城島春江のことか? 私たちの中でも噂が絶えないよ。菩薩と呼ばれる女ってね」
「ああ、不思議な人だよ」
「そうだな。そして、その女の元にいる君の行動もな」
 李はもっと深く追究したいと言わんばかりの表情を仁木に見せた。
「李君……君は何を言いたいんだ?」
 仁木は警戒感をあらわにした。
「そういう意味ではない。どんなマジックを使ったのかと思ってね。私も是非、そのマジックを使いたいと思ったわけさ。私だけじゃない。皆知りたがっているんだよ。だから私がその代表でね」
 仁木は思わず吹き出してしまった。そして笑顔のまま李に返した。