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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~現世編~

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 それでも春江は歩みを止めなかった。苦痛が待ちかまえていることぐらい分かっていたことである。ただ、それがどんな苦痛か分からないだけ……春江は、三の鳥居エリアがどんな試練なのか明らかになったことで、落ち着きを取り戻した。この痛みとどのように向き合うのか考えるだけで問題が解決することができると思ったからである。
 春江は、とにかく痛みを我慢してこのエリアをくぐり抜けようとした。次の試練がどんなに辛いものであろうと、呼吸はできるはずである。呼吸できないまま長時間いるのは危険だと直感したのである。
 しかし動こうとすればするほど、水が体に粘着してくる。春江は、ここが踏ん張りどころだと覚悟を決めて、更に体を動かしていった。
 力いっぱい体を動かしても、スローモーションのように少しずつしか動かなかった。そうやってゆっくり動いている春江の前を、悠々と魚が泳いでいる。魚は、素早い動きで駆けめぐっているが、春江は自由に動けない。人間は魚以下の価値である。ということを暗示しているのかもしれない。
 春江は意地と根性で四の鳥居が見える位置までたどり着いた。あと数メートル。最後の力を振り絞って歩いていったが、その矢先……
 水に変化が現れた。それは、水の流れである。まるで、川の中にいるかのように、その水に明かな流れが起きてきた。その流れは、進行方向の逆であり、春江は流れに逆らって歩かなくてはならなくなった。
 春江は石段で岩石に飛ばされたことを思い出した。もうあの時のような失敗はしない。絶対に後ろに下がらない。
 そう心に決め、何があっても踏ん張ろうと決意した。しかしそう思ったものの、その場に立ち止まることはできても、前に歩くことはできなかった。いつまでもこの場に留まっても体はもつのだろうか。そういう不安もあったが、慣れた頃にどうにか動くことができるだろうと腹をくくった。
 しかし、その思惑を裏切るかのように、水の流れが次第に強くなり、その上、流れてくる水の中に石のような堅いものが含まれるようになった。
 最初は、地面に敷き詰められている砂利か何かと思ったが、暫くすると、その堅いものは次第に大きくなり、単なる砂利ではないと思い知らされた。更に、周りを取り巻く水の温度が急激に下がってきたのである。
――――ピキ……ピキ……
 どこからともなく、ものが折れるような、そんな音が響いてきた。
――――氷?
 春江の読みは当たってた。石だと思っていたのは氷であった。しかも、春江の周りが次第に凍ってきたのである。
 春江の体を漂っていた水は、まとわりつくことをやめた代わりに、堅くなり、更に春江の動きを阻んだ。暫くすると完全に凍り、周りは静寂に包まれた。
 春江は完全に動きを縛られた。持ち前の根性で、氷を割ろうとした。しかし高さ十数メートルで神社の一角を占める程の大きな氷である。いくら思いが強いからといって、それだけで割れるようなものではない。
 それを悟った春江は、動くことをやめ、この場に留まることを受け入れようとした。息ができないことで、早々にこの場を立ち去らなければならないと思っていた。しかし、それができない今、息ができないことすらも受け入れなければならない。
 春江はゆっくり目を閉じて、そっと自分の中心に意識を向けた。
――――私は何も感じない……私は空気……空気になる……
 そう呟くと、自分を取り巻く様々な苦痛をはねのけようとした。この行為は痛みから逃れるために生まれた発想だが、春江という我から離れ、自然と一体化しようとする行為であり、魂の向上にかかわるものである。春江は千回詣を経験することにより、明らかに穢れを祓い、浄化されるのである。
 水が完全に凍ってすぐ、その頭上に煌々と輝く太陽が現れた。この光によって、少しずつ巨大な氷が溶かされようとしていた。永遠と思ってしまう程の気の遠い束縛。しかし耐え忍ぶことにより、確実に解放されるのである。
 春江は身動きが取れないため、氷が溶け始めていることを理解する術がない。このまま永遠にここに留まることになるのだろうかという不安をもってしまうと挫折してしまう。この試練の困難さはそこにあった。
 しかし、無我の境地で佇んでいる春江は、難なくこの問題をクリアしようとしていた。
 溶けた後の水は左右に流れ出て、その場に留まることはなかった。そのため、氷が完全に溶けると呼吸することが可能になる。この試練の終焉は氷が溶けた瞬間であろう。
 氷に閉じこめられて約数日。やっと顔の氷が溶け呼吸ができるようになった。春江は目を開け、ゆっくりと深呼吸をした。
「勝ったぞ!」
 天に向かって高らかに叫び、喜びをあらわにした。その後、体を大きく動かし、周りの氷を砕いた。
 溶け残っている氷の上を歩いて先に進む。目の前には四の鳥居。次なる試練の始まりであった。
 どんな仕掛けがあるのか分からなかったが、躊躇せず突き進むのが最善だと思った春江は、いつものように全速力で駆け抜けようとした。四の鳥居は一見すると、何の仕掛けもないように見える。しかし、見えないだけで、実は悲惨な仕掛があるかもしれない。鳥居をくぐり抜ける度に、厳しい試練を体験した春江にとって、その思考は至極当然のことだった。
 しかし、くぐり抜けた後、春江は拍子抜してしまった。圧力や灼熱が強くなったとはいえ、それ以外の仕掛けがなかったからである。それが逆に春江の警戒心を高める結果につながった。
 春江は周りを注意深く観察し、どんなものが降りかかっても対応できるようにした。四の鳥居と五の鳥居の間は、何の変哲もない参道だったが、向かって右側に小さな社があった。
 この社は摂社といい、この神社に縁のある神を祀ったものである。ただ単に参拝客として訪れていれば、何も気にするものではないが、春江は、千回詣の挑戦者としてここにいる。思いもよらぬ所から春江を襲ってくる可能性があった。
 このエリアの試練はこの摂社が関係するのではないかと思い、春江は摂社から目を離さなかった。春江の予想通り、この摂社に動きがあった。中から何かが出てきたのである。春江は身構え、その動きに対応しようとした。
 中から出てきたのは、龍だった。摂社そのものは一メートル四方であり、それほど大きいものではないが、龍の体は十数メートルに及んだ。
「龍神様?」
 春江は咄嗟に呟いた。目の前にある龍が本当に龍神かどうか、今の春江に分からないことだった。しかし、これまでの試練とは違い、何か神々しい存在とかかわることになるのではないかと春江は思った。
 龍は暫く辺りを歩き回った後、ゆっくり春江の方に体を向けた。龍と春江の対峙は十数分に及び、その間睨み合いが続いた。
 その緊張を解くかのように、春江は口を開いた。
「龍神様ですか?」
 すると、龍が返答した。
「汝に答える名はない」
 正体を答える義理はない。自殺者に対する天使たちの評価を象徴する言葉であった。自殺は罪である。自殺者は罪人である。罪人には人間としての尊厳は認められない。天使が人間に対して冷たい眼差しを向けるのはこの為なのである。