天上万華鏡 ~現世編~
第一章「転落」
古びた洋館の二階。その一室に女が一人でいた。部屋の中央にロープがかけられ、その先は、輪のようになっていた。このロープは首を吊るためのものである。
「私はあなたの障害になるぐらいでしたら潔く死を選びます」
そう呟いた女は、目の前にあるロープに手をかけようとしていた。目の前には大きな窓があり、その奥は嵐のように朱や黄の葉が舞っていた。
時は昭和初期。軍部が台頭し、国の在り方が変わろうとしていた。激動の時代において、政治に翻弄される人物が多いのはいつの世も同じである。ここにも翻弄される人物がいた。その名を城島春江(じょうじまはるえ)という。
春江は首を吊るため、踏み台として小型の椅子に乗り、ロープを両手で握った。
そしていよいよ首にかけようとした時、輪になったロープの奥に吹雪のように舞っている葉が目に映った。
その瞬間、春江の胸に何とも言えない気持ちがこみ上げてきた。
――――そうだ……あの時もそうだった……庄次郎様
幸せだったあの頃を、愛しい庄次郎との宝石箱のような思い出を、命を絶つ瞬間に思い出す。それがどんなに残酷なことかと思う間もなく、暫し穏やかな時間が流れていった。
――――あの時も今日のようにたくさんの葉が……
春江の目に映っているのは、殺風景の木の窓枠や輪になったロープではなく、鳥のさえずる湖畔だった。そこは庄次郎と出会った場所……そして生きる目的を見いだした場所だった。
春江は、庄次郎との思い出にふけることで、自殺しようとしている現実を一旦忘れようとした。
「春江さん、あなたとこの湖に来たかった。ここにいると世の中の醜い争いが嘘のよう。私はこの湖のように常に穏やかで、静かで、温かく……そうありたいんです」
湖の縁で朱に染まった葉を拾いながら佇む春江に庄次郎は呟いた。
庄次郎は軍人である。軍人は国を守るために戦うだけではない。国を自分の理想に近づけるための政治的な駆け引きが、当たり前に行われる。その駆け引きの中にクーデターなどの武力によるものもあった。
そんな政治闘争に庄次郎も巻き込まれていた。そのことを庄次郎から聞かずとも春江は察していた。心優しい庄次郎が、軍人として精一杯国を守ろうとしている。庄次郎の瞳の奥に優しさと確固たる覚悟を垣間見た。
「春江さん……また一緒にここへ来ていただけますか?」
「はい。喜んで」
春江はゆっくり微笑んで、自然と言葉が出た。
春江は、男性からの誘いを未だかつて受け入れたことがなかった。しかし、庄次郎の優しさに惹かれたのである。そして優しいからこそ、この過酷な世界を生きていくことが庄次郎にとって困難なのではないかと感じていた。しかし、逃げることなく自分の使命を全うしようとする姿を見て、自分が支えていきたい。寄り添っていきたいと素直に思えたのである。
この静かながらも熱い気持ちを、春江自身、不思議な気持ちで見つめていた。
それから、春江と庄次郎はよく湖で会うようになった。湖を黙って見つめ、二人で物思いにふけった。
時には庄次郎が日本はこうあるべきだと国の在り方を語り、いかに今の日本が混乱し、それに乗じて私腹を肥やそうとしている輩が多いのか弁を奮った。ある時は、春江が得意としたバイオリンに合わせて庄次郎が歌った。
「埴生の宿」
これが庄次郎のお気に入りだった。
二人にとって夢のような時間が過ぎていった。二人は言葉には出さずとも、いずれは夫婦になって子を産み、人並みにも幸せな人生を送ることになると信じていた。
しかし、最も恐れていた瞬間が訪れた。
「春江さん……戦地に赴かなければならなくなりました」
「え?」
庄次郎は軍人である。いずれは戦地に旅立っていく。そして庄次郎は人一倍責任感の強い人間である。命を省みず日本のために、隊のために、奮進するだろう。
覚悟をしていたつもりの春江だったが、現実に突きつけられると、こらえきれない焦燥感と、幸福が終焉したのではないかという根拠のない確信をもってしまった。
春江の狼狽を目の当たりにした庄次郎は、自分と春江との絆を実感しつつ、それを決して解くことのないようにありたいという決意のもとに口を開いた。
「皆は死して天皇陛下のためとなれ。と言いますが、私は……」
「え?」
「なんとしても……帰還したい」
「庄次郎様……」
春江は予想外の言葉に驚きの声を漏らした。
「帰還した暁には……夫婦になっていただけませんか? 私はあなたを命懸けで守っていきたい。その資格があるならば、決して死ぬことなくあなたの元に帰ってくることができると確信します。私はあなたがいて強くなることができる。それを証明したい」
自分の職務より、自分との幸せを大切にしてくれた。
この事実を知った春江はこの上ない幸福感を体中に巡らせた。それ故に、その幸福感を与えてくれた庄次郎が遠いところへ行くことに対する苦痛は計り知れないものだった。
――――私は、いつも大切なものを失う前に手に入れる……気付かされる。
そう思いながらも絶望することはなかった。激痛とも言える不安の中、春江は力強く思うことができたからである。
――――きっと帰ってきてくれる。私のために……
そう思いが巡った途端、何故か急に涙が溢れててきた。この涙を庄次郎に見せてはいけないと咄嗟に思い、春江は庄次郎に背を向けて駆け出そうとした。
「春江……さん?」
庄次郎は不安気に声をかける。その声に我に返った春江は庄次郎に振り返る。
「庄次郎様。私は待っています。絶対に帰還されると信じて待っています」
互いの顔を見合わせながら静かに微笑んだ。2人は今の幸せを十分に実感しようと素直に思えた。この先どうなるか分からない。でも今心が満たされているのは確かなこと。
皮肉にも庄次郎の出兵で二人の絆は強固なものとなった。
目の前はいつもの湖。夕焼けが反射して深紅に染まった湖。そういつも眺めた湖だった。それが春江には、いつもよりも光り輝いているように見えた。
――――私達をいつも見守っていた湖が祝福している。
春江はそう信じてやまなかった。そして、それが春江の覚悟を後押しした。
「庄次郎様……あなたは私のために生きて帰ると言われました。なら、私も申しましょう。軍人の妻として、あなたのためでしたら、いつでもこの身を捧げましょう。いくらこの身が裂かれても、あなたのために捧げることをお誓い申し上げます」
庄次郎はゆっくり春江のもとに近づいた。そしてそっと頭を抱いた。春江は吸い寄せられるように庄次郎の胸板に顔を埋めた。
――――今が永遠であればいいのに……
時間がゆっくり流れる中で、そう春江は呟いた。
珠玉の思い出に浸っている最中、視界いっぱい広がっている庄次郎の姿が激しく砕け散り、目の前に突きつけられている現実に引き戻された。
庄次郎との思い出溢れる湖畔から、自殺しようとしている洋館の一室に風景が戻ったのである。
――――そうだ……私はここで……
窓の奥の落葉から目の前のロープに視点が移る。このロープに首をかけるだけで全てが終わる。人の命はたったそんな簡単なことで絶たれるのか。覚悟はしていたものの、こらえきれない虚無感が春江を襲った。
作品名:天上万華鏡 ~現世編~ 作家名:仁科 カンヂ