天上万華鏡 ~現世編~
第三章「異形への誘い」
衝撃的な風景ばかり見せられ、春江の疲労はピークに達していた。幽体なのにどうして疲労があるのか不思議に思う春江だったが、その真相は、精神の状態が直接影響するためだった。精神的なダメージが肉体的なダメージとして実感されるのである。
それを察した仁木は、気分転換をするために、海岸に向かった。春江は、庄次郎とよく森の中の湖には来ていたが、海は滅多に来なかった。
死後の生活は厳しいものだと、過酷な現実ばかりつきつけられて、打ちのめされていた春江にとって、仁木の提案はとてもうれしいものだった。
「……海は……広いな……大きいな」
つい口ずさんでしまった。仁木は微笑みながら眺めている。その視線を感じた春江は我に返り、頬を赤らめながら俯いてしまった。
「久しぶりなんで……つい……」
「いいじゃないですか。それにしてもお上手ですね」
「私……音楽が大好きなんです。女学校でバイオリンを学んでいました。歌も……同じ音楽なので、勉強したんです」
「バイオ……リン?」
仁木は明治の軍人、西洋の楽器であるバイオリンを知らなかった。
「仁木さんはご存じないんですね。西洋の楽器です。私……バイオリンの音色がとても好きなんです」
春江は、仁木に微笑んだ。仁木は、これまで春江の悲しい横顔しか見ていなかった。春江の笑顔を見ながら、自然と笑顔で返した。
「ここにバイオリンがあれば弾いて差し上げるんですけど……こんな体になってしまったから、あっても持てないか……。」
二人の周りはこれまでと同じように異形なる者達の叫び声で溢れていた。しかし、ほんのひとときの安らぎを感じていた。たわいもない話だったが、春江は仁木と語らうことで、世界とのつながりを実感した。
海が見えてきた。しばらく歩くと海に到着する。二人は急ぐことなく、会話を楽しみながら足を動かした。
「私はラッパを吹くのが得意なんですよ」
「え? トランペットですか?」
春江は驚きの声を上げた。
「多分それですね」
「仁木さんも音楽を?」
「いえ、軍隊で部下に指示するためにラッパを鳴らすんですよ。それで練習したわけですが、何か……楽しくなりましてね、部下に隠れてこっそり練習をしていたんですよね」
同じ趣味があったんだと知った春江は、とてもうれしくなった。これまで同じ趣味をもった人と出会ったことがなかった。あの庄次郎でさえ、自分の影響で歌を歌っていたにすぎない。
仁木とトランペットで共演できたらどんなに素敵なことだろう。と思いを馳せつつも、それが叶わない虚しさに襲われた。でも、音楽の話はできる。このことは春江を喜ばせる大きなことだった。
「どんな曲を演奏するんですか?」
春江は目を輝かせながら聞く。
「そんな期待する目で見ないでくださいよ……たいしたことありません。軍で使う曲だけで……」
「そうなんですか……知っている曲があるのかなと思って……」
「春江さんはどんな曲を?」
「私はシューベルトが好きでした。野バラとか」
「しゅーべると? そういう方がいらっしゃるんですね? 聴きたいですねぇ」
春江は仁木の言葉を聞いてうれしくなった。でもそれが叶わないこともよく分かっていた。叶わないと思いながらも、力強く首を縦に振った。
「もうすぐ着きますよ。」
目の前には海が広がっている。何年ぶりの海だろうか。春江は胸が躍った。
「お先に失礼!」
春江は仁木にほほえみかけて、海に駆けていった。
「春江さん!」
春江は浮かれ心に気持ちが高ぶり、駆け抜けていった。海に到達した瞬間にこれまで見たことのなかった異形なる者が群れをなして出迎えた。
水死霊である。
波打ち際に漂っている水死霊は、海に浸かっている人間を海中に引きずり込もうとしていた。無表情で淡々と引きずっている。体は腐り、顔は水を吸ってただれながらもぱんぱんに膨らんでいた。
黙々と殺人作業をしている光景に違和感を感じざるを得なかった。春江は、その水死霊の一人と目が合ってしまった。その瞬間、水死霊の瞳に吸い寄せられるような感覚に襲われた。
錯覚かと思うや否やその考えは即座に否定された。本当に体全体が吸い寄せられたからである。
「春江さん! 目を逸らして!」
仁木が叫んだ。春江はパニックになりながらも仁木の言う通りにした。
程なくして仁木は春江に追いつき、春江の体を支えた。
「春江さん。シューベルトって偉大な作曲家なんですか?」
「そうです。そうです。いい曲ばかり作っているんです」
仁木は春江の意識を水死霊から逸らそうと必死だった。春江も仁木の意図を察してか、唐突な仁木の会話に対応しようと試みた。
「そうですか。私に聴かせてください。そのシューベルトを」
「私も同じ気持ちですが……無理でしょ?」
「いえ。可能なんです。私がどうにかします」
「……え?」
春江はびっくりして思わず呟いた。その刹那、水死霊から引き寄せられる力がなくなり、その場に座り込むことができた。
「嘘ではありませんよ。そのバイオリンというものを用意しますから、今度からは勝手に走らないでくださいね」
「はい」
春江は仁木に微笑んだ。仁木はとても優しい人だ。こんな人が自分の父親だったらいいのに。春江はそう思わずにいられなかった。
春江と仁木は浜辺に到着した。先ほど見た水死霊が出迎えたが、さっきのように吸い寄せられることはなかった。心の隙間、気の緩み、そこにつけ込んで操られるのだ。地に足をつけて歩く限り、足下をすくわれることはない。
春江は仁木と共に逞しくこの世界を生き抜くことができつつあった。
浜辺に着いた二人は打ち上げられた流木に座ってゆっくりと海を眺めた。
「なんかピクニックみたいですね」
春江は海を眺めながらしみじみと言う。
「そうですね」
仁木もまた、海を眺めて言葉を噛みしめながら言う。しばし穏やかな時間が流れていった。
春江には、眩しく光る青い海に、遠くまで広がる砂浜。雲一つない青空。そんな爽やかな風景に、水死霊たちの陰気で暗い姿のアンバランスさが異常に見えた。
しかし、春江は水死霊を視界から消した。それは、今のささやかな楽しさを十分に味わいたいからであった。
風のささやきと波の音が静かに春江を包み込む。春江は静かに目を閉じて、深く深呼吸した。
「春江さん。春江さん」
仁木が春江を呼ぶ。春江はゆっくりと目を開き、仁木の方を向いた。すると、仁木の手にバイオリンが握られているのが見えた。
「え? どうしてバイオリンを?」
仁木は微笑みながら人差し指を唇に当てて呟いた。
「秘密です」
春江にとってどうやってバイオリンを手に入れたのか、どうでもいいことだった。諦めていたバイオリンが目の前にある。これまで、自分の大切なものをことごとく失ってきた春江にとって、唯一と言えるものだった。
震える手でバイオリンを握った。弓に松ヤニをつけて滑りをよくする。左手で弦の感触を確かめた。
――――ああ、バイオリン。この感触……久しぶり。
作品名:天上万華鏡 ~現世編~ 作家名:仁科 カンヂ