コッペリアの葬列
コスモス
「コスモス」は、五年前、私が大学一年生のときに書いた、おそらくは最初の短編集だ。
タカやんと呼ばれている、いつも笑顔だった一人の男子生徒の自殺を軸に、周囲の四人の人間の語りで物語が進む。
四つの物語で一番読者が多いのは、二つ目の「コスモス2」……タカやんに想いを寄せていた可奈子の語りだ。でも、本音を云ってしまえば、私がこの物語を作る上で必要だったのは「コスモス1」のみであり、あとの三つはおまけのような気持ちで付け足しただけである。
「コスモス1」は、タカやんと一緒に、タカやんが身を投げた廃墟ビルに入ったことがある静香の、そのときの回想を語ったものだ。二人で上層階まで上り、ベランダから外を眺めるのだが、タカやんは何時もの笑顔を崩し、その目の前に広がる光景に「くだらない」と呟く。
おそらく大半の読者の方は、四つある物語の中で一番この一つ目の物語が理解し難い筈だ。それはアバウトで的確な解釈が避けられているせいもあると思うけれど、それだけ私の独自の世界観と偏見が強いからだろうと思う。
誰もが一度は上層階から外を眺め、ビルやマンションなどが密接して立ち並ぶ光景を見たことがあるだろう。そのときに、何を考えますか?綺麗だと思う人もあれば、すごい狭い世界だなと思う人もあるだろうし、その考えは十人十色なことだろう。
「くだらない」
タカやんの呟いたその言葉が、私のそれに対する回答だ。
今、こうしてパソコンのキーを打つ私のすぐ前には窓があって、その向こうに高層ビルやらマンションやらが密集した景色が広がっている。それらを見る度に、私は何時も「箱のようだ」と思う。小さかったり、大きかったり、綺麗だったり、汚かったり、様々な形状をしてはいるけれど、所詮は箱の羅列なのだと、そう思うのだ。
そして、それを思うのと同時に、私はその光景に絶望を見る。
視界に広がる世界は、その視界の先まで果てしなく続いている。目の前に映る光景の中だけでも、ドールハウスのようなちっぽけな箱が数え切れないほど存在し、その小さな箱の中にうじゃうじゃとやっぱり数え切れないほどの人間は蠢いている。世界の規模で見れば、本当に一人の個人というのは、取るに足りないようなちっぽけな存在なのである。
だが、それにも関わらず、その一つ一つの箱の中で、威張る人もあれば、ひれ伏す人もあり、嘲笑する人もあれば、ふんぞり返って顎で人を使うような人間もある。
たかだか、取るに足りない小さな箱の中で、上下関係が培われたり、媚態を晒したり、機嫌を取ろうと手揉みをしたり……それはひどく愚かなものだと思うのに、私も結局そうした人間の一人に過ぎない。救いの見えない世界に産み堕とされたような淡い絶望ばかりが、余韻で残るのだった。
その憂いをただ文章にしたくて、そうして書いたのが、この「コスモス1」なのである。
だが、この解釈を私はこの小説の中で一切示していない。静香はタカやんの自殺の理由が、おそらくはその「くだらない」と呟いた言葉にあるのだろうと睨むが、結局はそれを明確には説明できないまま物語は終る。
どうして解釈を避けたのか、それは正直今となってはよくわからないけれど、書き直そうとも思わないのが事実だ。人の心なんてものは、当人でなければ理解することはできない。そういう、危うさとか曖昧さこそが人間らしいとあらためて考えると、こういうよくわからない結末で良かったのかなと思う。