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音楽の人

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グラスから手をはなした。
重力にすなおに落ちていったアクリルかなにかなのだろうそれは確かに硬そうな音をたてただけで、そのかわり中身がばしゃんと派手に飛び散った。
ハネオさんはびっくりしたのかもしれない、裸足がぬれたのかもしれない、何か怖いことがあったのかもしれない。
ひくりと揺れた肩を、自由になった右腕で抱きしめてあげた。

「脱がなきゃ、シャツ。しみになるよ」
「……いいよ、別に」
「床、あとで掃除するよ」
「時間がないよ、」
「あるよ。帰るのやめたから」

たっぷり十数秒もの間のあと、ハネオさんはゆっくりと顔をあげた。
にわかに信じられないという面持ちをしてまじまじと俺の前髪の奥をのぞき込んでくるハネオさんにも正しく真意が伝わるように、文節をきって、それはまるで何か大きな祝典の始まりみたいに、俺は宣誓した。

「俺は、今日、ここから仕事に行きます。しかも、ここに帰ります。」

オレンジのにおいがふと強くなった。
ずいぶんとハネオさんの体温が上がっていることに気付いて、それは俺のせいなのだと思ったら、甘いような痛いようなものが胸のあたりからせり上がってきた。
鼻の奥がつんとした。
オレンジみたいだと思った。

下まつげの際にひかるものが気になって顔を近づけたら、くちびるがふれた。
ため息とともに伏せられたまぶたに、きれいな奥二重を発見したのは夜のこと。

「泣く?」
「……泣かねえよ」
「泣いてもいいのに」
「泣いてやるものか」
「俺は泣きそうですけど」
「俺だって泣きそうだよ」
「好きですよ」
「……うん、」
「腰がぬけそうに好き」
「う、」

ぜってーなかねー、と変なところで強がりを発揮するハネオさんの腕からとらわれたままだった左腕を抜き出して、今度こそしっかりと抱きすくめる。
ふうっと肩口をあたためるのはため息によく似ているけれど、全く違うものであることを俺だって恋くらいしたことがあるから知っていた。

「ハネオさん」
「うん、」
「東京タワーがどうしたの」
「……うん?」
「起きぬけに東京タワーがどうとかって」
「……東京タワー。ああ、なんでも」

ないよ、と言いかけたらしい口を半分あけたまま、ハネオさんはふいに静止してしまった。

「ハネオさん?」
「…………、」

何やら忙しくこねくっているときの彼を邪魔すると著しく機嫌をそこねることを知っているので、しつけのよいいぬのようだと他人ごとのように思いながらおとなしく待っていると、冷えた両手がゆらりとのびてきて、ぱちんと俺の頬をはさんだ。
奥二重がひたひたとまたたく。

「うさみさん」
「はい。なんでしょう」
「きみんちって、お手洗いの小窓から微妙に東京タワーが見えたよね」
「……え、そうだっけ」
「そうだよ。今日うち来んの中止な」
「え、ええ?」
「おまえんち行くから」

俺の一世一代の告白をさらりと更新してハネオさんは笑った。
冷えたリノリウムの床に(オレンジジュースをそれとなくよけながら)二人してくずおれてみたら、決して広くはない玄関スペースの色々な、くだらない秩序が乱れはじめて、俺はそれをとても爽快に感じた。
壁づたいに積んであった靴の箱のタワーが、ハネオさんの頭上になだれた。
つむじに角があたって地味に痛かったらしくふてた顔をしたハネオさんの眉間に、俺は笑いながらキスをしたのだった。



作品名:音楽の人 作家名:むくお