心なりけり
私は早起きをしました。燦々と照るお日様に向って元気よく「お早う」と挨拶したくなるような、そんな可愛らしい陽気でした。
街は最先端を歩く人々と、日本の素晴らしきニュー・カルチュアに溢れかえっていました。
私は自分の田舎っぽい泥臭さを少しばかり気恥ずかしく思いながらも、気持ちだけは都会人にと、胸を張ってずんずん歩きました。
しかし街は流行の色とりどりにキラめいて眩いばかりです。
私は私のいつもの黒っぽい服装、これはこれでおしゃれだと思って遠慮はしないのですが、それがキラキラの中にぽつんと沈んでいるようで、やっぱり何となく気後れするのでした。
しかし先日行きつけの美容院で短く刈ってもらった髪が夏らしくて私の気に入っており、それを触ってみたり、ぽんぽんと元気なステップを踏んでみたりして、私は徐々に元気を取り戻しました。
前方に、凄まじい美女オーラを放つ女性が歩いてくるのが目に入りました。
世にも美しいその女性は、モデルか芸能人か、あるいはモデルで芸能人か、世事に疎い私にはわかりませんが、きっとそういった華やかな仕事をしている方に違いありません。
白い手足がスラリと伸び、大きな目とふくよかな唇が特徴的です。
その女性の雅に長い髪が揺れるのについつい見惚れてしまい、私は思わず「うふぇん」と色っぽい声を上げてしまいました。
するとその女性は私に近づき、ウフフと上品に微笑した後で、艶やかな張りのある声で私に言いました。
「あなた、それじゃベトナム帰りの負傷兵よ」
私は何が何だかわからないものの、このまま引き下がるわけにはいかない、ふるさとのみんなに顔を合わせられない、と変な気概を抱いて反論を試みました。
しかし、普段読書を怠っていたためでしょう、良い言葉、この美しい女性をガツンと意気消沈させ、ギャフンと戦力を喪失させるような、的確な言葉が、私の頭の中のどこを探しても見つかりませんでした。
しかし必死な私は、私の頭の中に何となく置き去りにされていた言葉たちを掻き集め、それらをつなぎあわせて言い放ちました。
ただこんな妙ちくりんなセリフになるとは、言った私にも全然予想ができませんでした。
「あなたこそ、東南アジア伝来の豆板醤か、もしくはホルマリン漬けのマリリン・モンロウよ」
その瞬間、私たちの間には宇宙のように重たい沈黙が横たわりました。
辺り界隈はまさに時代の一等賞を我先に争う人々の巨大で煌びやかな喧噪で飽和状態だったのですが、私たち二人の間だけはまるで全然、静寂のような沈黙でした。
私たちはお互いの眼に映る自分の眼に映る相手の姿を凝視していました。
すると、突然どこからか「へっきょん!」という奇怪な音とともに、どこか面白味のある、粘着的な液体が丁度美女の高価そうなブーツの上に降ってきました。
今となってはもう知る術はありませんが、私はその液体はまさしく唾液だと思いました。
今ではそれはきっと、天使の垂らした涎だったのだろうと、少女のようにメルヘンなことを考えたりもするのです。
とにかく、その天使の涎が、沈黙を一刀両断にしました。
美女はハッと我に返り、引きつった表情で私のつま先から頭のてっぺんを舐めるように見た後で、フンっと私を鼻で笑って身を翻し、来る春を身に纏って颯爽と去ってゆきました。
ただ、彼女の足には唾液がついたままでした。
私はとにかく何か馬鹿にされたと、よくわからない悔しさを小さな胸に抱えたまま、仁王立ちに立ち尽くしました。
涙をぐっとこらえると、余計に悲しくなってしまいました。
誰か、誰でもいいから誰かの胸に飛び込んでさめざめ泣きたいような、そんな恥ずかしい気持ちだったのです。
しかしお日様は相変わらずぽかぽかと暖かく輝き、私ばかりくよくよしてもつまらない、と思って気を取り直しました。
それに私には人と会う約束があったのです。約束があるということは、とても幸せなことです。