二条城心中
……それが、あの声だった。
『約束で御座いますよ』
そうだ。俺はあの女たちと約束したのだ。決してお前たちを置いてはいかないと。死出の旅まで添い遂げると。
その女たちの声が、なぜ今になって。
義輝ははっとして、手にした刀を見た。
『蝶よ花よと褒めそやされて、でもそれだけなので御座いますよ』
『あるじと共に老い衰え、死出の道まで添い遂げるのが、女の幸せでございます』
『なのにわたくしたちのあるじさまは、誰一人それを許してくださらなかった!』
『みんなわたくしたちをおいていってしまわれる』
『一緒に行こうとは、決して言って下さらなかった』
成程、そうであったか。義輝は瞑目し、そして笑った。今こそ、あの約束を守る時であったのか、と。
義輝は一刀を手に立ち上がり、それを足元の畳に突き立てた。
家臣の目が驚愕に見開かれる中、義輝は童子切安綱も抜き払って畳に突き立てた。鬼丸国綱もそれに続いた。大典太も二つ銘則宗も、骨喰吉光もだ。
使ってやらなければならぬ。残り僅かな己の命を、これのために使ってやらねばならぬ。それが義輝とあの女たちの――刀に宿るあやかしたちの約束なのだから。
地鉄がどうの、沸がどうの景がどうの、刃紋が美しいの華やかだのと褒めそやされ、姫君の着物のような豪奢な鞘を拵えられ、大事大事にしまわれても、それは刀の幸せではない。それは刀と生まれたものの本懐とは程遠い。
刀は人を斬るためのもの。あるじと共に血脂にぬめり、刃毀れし、折れるまで振るわれて初めて生きるもの。
あの女たちは「そうありたい」と義輝に請い願ったのだ。
「……このようなことになるのなら、大般若長光も手元に残してやれば良かったの」
義輝はぽつりと、そう漏らした。
だが、それはすでに義輝の手元にはない。あの刃紋の華やかな太刀は、これからも名刀として大切に扱われ、蝶よ花よと褒めそやされて、刀の本懐とは遠い場所に封じ込まれてしまうのだろう。
悪いことをした。それこそが、あの女たちが――刀に宿るあやかしたちが、最も厭うていたことだというのに。
しかし、もう手元にないものは仕方がない。
義輝は後悔を振り切るようにして、主人の奇行を驚きつつも見守っていた家臣たちの方へと振り向いた。
「すまぬ。自害はなしじゃ」
「殿!」
奇行の次は乱心か。戸惑う家臣たちを、義輝は静かに宥める。
「案ずるな。この期に及んで命惜しくなったわけではない。だが、お前たちは逃げよ。松永の狙いは俺一人。お前たちだけならば、今からでも何とか落ち延びることもできよう。生きて我が弟、義昭を支え、幕府の威光を取り戻す力となってくれ」
「しかし、殿」
「殿を置いて、我等だけが逃げるなどと」
だが、義輝はゆっくりと首を振る。
「俺はここで、死なねばならぬのだ」
そう言って、義輝は薄く笑った。
「こやつらと共に、死んでやる約束をしていたのを思い出した」
「こやつら、ですと」
家臣たちは義輝の言葉にその視線の先を追ったが、そこには先程畳に突き立てられた、古今東西の名刀があるばかりだ。
気でも触れたか――ぎょっとする彼らの前で、しかし義輝の表情は涼やかですらあった。死を前にしているとは、とても思えぬ顔であった。
言葉の意味は理解できずとも、そこに義輝の覚悟の固さを見たのだろう。家臣たちはそれ以上何も訊かず、何も問わず、ただひれ伏して義輝に最後の別れを告げると、次々と落ち延びていった。
天下の武士の棟梁でありながら、生涯何一つ自由にならなかった男の最後の願いだ。それが気狂いの発作であったとしても、叶えてやらねばと哀れむ気持ちもあったのかもしれない。
やがて、一人になった義輝を、あの女たちの声が押し包んだ。
「ああ」
「ああ、やっと」
「やっと触れてくださいましたのね」
「やっと閨にお呼びくださいましたのね」
その声に義輝は頷く。
そうだ、ここは将軍義輝の最後の閨だ。畳に突き立てた刀は皆、義輝の最後の夜伽を命じられた女たちだ。
鈍く光る刀身に、義輝は低く叫んだ。
「約束じゃ。俺と添い遂げよ」
その時、襖を蹴破って敵兵が飛び込んで来た。義輝は畳から一振りの刀を抜くと、裂帛の気合を乗せて一閃した。
剣聖塚原卜伝より新当流を、上泉伊勢守信綱より新陰流を学んだ剣豪の一撃である。一刀の元に相手を切り倒したその剣に、続く攻め手が一瞬ひるんだ。
しかし敵方は、数を頼みに次々と義輝に踊りかかってくる。
義輝はそれを斬り倒し斬り倒し、阿修羅のごとく最後の剣舞を続けた。
そうして人を斬り続けた刀は、肉を斬っては血脂にまみれ、骨を断っては刃毀れしていく。本来の切れ味を失った刀は、そのうちに兜を割り損ねてぼきりと折れた。天下の名刀と呼ばれた刀が酷い有様だ。これではもう、元の美しい姿には戻るまい。
だが義輝はその時、確かにあの女の声を聞いた。鋼が折れる鈍い音は、断末魔の悲鳴ではなく、法悦の嬌声のようだった。