46度ずれた兄妹と、過去の彼ら
男物のソレはどう見ても雅弥の腐れ縁である衣鶴の物ではない。何故なら、衣鶴はこの兄妹の唯一の女友達なのだから。
「嫌な予感嫌な予感嫌な予感嫌な予感嫌な予感。大切なことなので五回いってみた」
干渉を嫌う仔鞠は、その見知らぬ靴を回避するように玄関を上がると、足音を立てないようにそっと廊下を歩く。
見知らぬ先客に気付かれたくないという全身での主張に合わせて、勇人もひっそりと玄関を上がって、二人して廊下からリビングを覗き込む。
そんなことをしてもあの雅弥の事だから、仔鞠が帰って来たことぐらい感づいているだろうけれど、態とだろう廊下に背を向ける形で立ち話をしている。
どうやら話し相手はソファに座っているようで、廊下にいる仔鞠達からは確認できない。
「…って訳で、俺は暫く家を空けなきゃなんねーから、お前に仔鞠の事頼みたいんだけど。…本当は嫌だけどな。すっげぇ嫌だけど。お前ぐらいしか頼めそうにないから言ってやるけど」
「あはは、雅弥らしい言い方だね。僕は構わないよ」
見知らぬ第三者の声を聞いたところで、仔鞠がばたん、と乱暴にリビングへの扉を開いた。
その時の仔鞠は、困ったような泣きそうな、でも怒った顔。
「おにーやん、どーゆーこと!?」
ずかずかと雅弥に歩み寄った仔鞠は、雅弥の腕を掴んで遠慮無くがくがくと揺さぶる。雅弥はソレに抵抗するでもなく、仔鞠の意のままに揺さぶられると、近間の壁に後頭部を強かに打ち付けた。
「…仔鞠、先輩また流血沙汰になるぞ」
そろそろ止めた方が良いと判断した勇人は、仔鞠の腕を止める。このまま放置していたら雅弥の額からどろりと鮮血が流れ落ちた事実があるだけに、勇人としても必死だ。
「だってだってだって! おにーやんどっか行くんでしょ!? その間一人じゃなくて、なんで知らないのと一緒な訳!?」
仔鞠なりに必死なのだろう。普段は冷静を保っている表情に焦りが見える。
「ん、一から説明すっから。まずな、衣鶴の仕事の兼ね合いで俺も五日間ぐらい此処空けなきゃなんねーの。んで、その間仔鞠一人になるだろ? お前も俺と一緒で一人だと生活能力絶無だから、その間の世話役…てか、小間使い? 雇ったわけ。あんなんでも一応俺の知り合いだから、気兼ねはするな」
「おいおい、雅弥。君の知り合いは=小間使いになるのかい?」
「黙れ戯けが。俺は今仔鞠に説明中だ。お前の出番は後だ」
銀縁の薄型眼鏡の奥の瞳が剣呑な色を浮かべてソファに座っている客を一瞥すると、ぽんと仔鞠の肩に手を置いた。
ソファの来客は、苦笑すると立ち上がって仔鞠と勇人に向かって片手を差し出す。
恐らく握手を求められているのだろうけれど、仔鞠は触れるのすら厭わしいと言わんばかりに雅弥の学生服を両手で掴んで拒絶する。他人との接触を極端に嫌う仔鞠を知っていれば、ソレは当然の反応だ。
そんな仔鞠を横目に、勇人はそれなりに挨拶を交わして握手をすると、当の来客は漸く自己紹介をした。
「初めまして、夏冬春秋って言うんだ。仕事は…一応、ゲームとかのシナリオライター。雅弥とは仕事場で会ったんだよ」
「へえ。じゃ、さよなら」
自己紹介をすませたなら帰れ、と言わんばかりに玄関を指さした仔鞠に、雅弥が珍しく苦笑する。余りに普通の仕草に、思わず勇人が固まったのは言うまでもない。
「それが、今日から暫く居候させて貰うんだよね」
「おにーやん、家出していいかな。あ、でも外じゃ生活できないや。強制排除可?」
夏冬の言葉に露骨に眉を寄せた仔鞠は、雅弥の陰に隠れるように背後に回るとぐいぐいと服の裾を引っ張った。
「うん、させてやりたいのは山々なんだがな? そしたら仔鞠が困るだろ?」
「困ってもイイ。五日ぐらいなら我慢できる」
「兄が許しません」
「許してよおにーやん」
むにぃっと仔鞠のほっぺたを摘んだ雅弥はやんわりと仔鞠を諭す。そう言えば、この兄妹は兄妹間では極々普通の人間らしいことをすることを思い出した勇人は、雅弥に助け船を出すように仔鞠に声を掛けた。
「そうだぞ、仔鞠。お前が人間嫌いなの一番知ってるのは先輩じゃんか。その先輩がわざわざお前の嫌いな赤の他人に頼むなんての、お前の心配して以外の何者でもないだろ」
勇人の言葉も何分来客に失礼だとは思いつつも、今は急降下している仔鞠のご機嫌を取る為にはやむを得ない。
「うぅ…おにーやんも勇人も…仕方ないなぁ…仕方ないから仕方なしに仕方なく容認するよ…」
がくり、と肩を落とした仔鞠の頭を撫でると、雅弥は改めて夏冬の方に向き直った。
「まぁ、俺が不在の間は仔鞠の事頼んだ。仔鞠のご機嫌を損ねるようなことでもしてみろ、日の目なんざ感知できないまでに精神的にクラックさせて、尚かつお前の命の次に大切な仕事データもライバル社にうっぱらった後再製不可能にしてやる」
頼んでいるのか、脅迫しているのか甚だ理解しがたい雅弥の台詞に、夏冬は苦笑すると了解と軽い声で返事をした。
「な? 仔鞠なら何とか出来るだろ?」
「うぐぅ…おにーやんがそう言うなら我慢する…」
珍しく弱気な返事をした仔鞠にいいこいいこと頭を撫でると、雅弥は勇人の方を向いた。
「って訳で、勇人くんも仔鞠の事頼むよ。土産は弾むからさ」
仔鞠の頭を撫でている逆の手で勇人の肩を叩くと、雅弥は早々に足下に置いてあったボストンバックを掴む。
「え、先輩、因みに何処まで行くんですか」
確か玄関先には大方のキャリーバッグが一つ置いてあった事を考えると、五日間の仕事にしてはかなりの大荷物だ。慌てた勇人の問いに、雅弥はぱちぱちと瞬きをすると首を傾げた。
「言ってなかったか? ちょっとイギリスまで」
「ッおにーやん! お土産は本場の紅茶が良いな! 妹の好きそうなのをたんと買ってきてくれればいいと思うよ!」
行き先を漸く告げた雅弥に、今まで落ち込んでいた仔鞠が勢いよく顔を上げて答える。
雅弥はそのつもりだと笑って玄関へと向かった。
「…つか、先輩、パスポート持ってたんだ?」
「らしいね。妹のあたしも知らなかった。きっといっちゃんに取らされたんだよ」
程なくして玄関の扉が閉まる音がすると、仔鞠はくるりと踵を返して自室へと足を運ぶ。勇人もそれを分かっているのか、仔鞠の背中にまた明日、と挨拶すると玄関へと向かった。
こうして、46度ずれた兄妹と夏冬は対面した訳だった。
…まぁ、現在も紆余曲折しながら何だかんだと人間関係が続いている辺り、相性は悪くないのだろう。恐らく。
仔鞠は「人類初と言って良い程悪い」と評価するだろうが。
作品名:46度ずれた兄妹と、過去の彼ら 作家名:彼岸坂稚弥