プラネットホーム
土星へと向かう最終便の出発はもう間近に迫っていた。
観光客や異星勤めとして出張してきていたサラリーマンたちは一週間前からの便で思い思いの惑星へと帰っていった。太陽系の九つの惑星を互いに繋ぐ惑星間高速移動船(プラネットライナー)を愛して止まない熱烈なファンたちでさえも、もう二度と訪れることの出来ない駅舎やホームの映像データを存分に蓄えてから、三日前の木星行きに乗ってこの惑星を去っている。未だ名残惜しそうに、ホームで出発までの短い別れの時を過ごしているのは、この惑星で長年暮らしてきた者たちだけである。彼らにとってはこの惑星こそが唯一無二の故郷なのだ。
しかし、わずか三人の管理人を残して、この惑星から人は去る。
「本当に、終わりなんだな。」
短い髪の男は、頭上に浮かぶ巨大な衛星=カロンに向けてシャボン玉を飛ばしながら呟いた。男の生まれた惑星よりもここでは重力が弱い。シャボン玉はよく飛ぶ。あっという間に半透明のドームに触れて跳ね返る。男は柔らかく笑んだ。自慢の混合液から生まれるシャボン玉は簡単に割れるようなタマではない。
「ええ。みんな散り散りになって、新しい惑星で暮らしていくのですね。」
答えたのはベンチに腰掛けた状態の男とさほど変わらない背丈の、少女。男の作るシャボン玉を見て微笑む。ひらひらとしたスカート姿に、肩までの髪を綺麗に二つ分けて三つ編みにまとめていて、その澄んだ瞳はどこか寂しさを湛えている。
「あぁ。しかしあっけないもんだな。太陽系統治機構のお言葉一つで、一つの惑星が文字通り消えちまうんだから。」
男は目の前の広大な畑に視線を移した。そこに生い茂る緑が男に深い感慨を抱かせて止まない。太陽系惑星として最後に発見されたこの星にも畑の食物は根を張り、人間からしてみれば広大限りないその星の地平線の先には、新たな森が独自の生態系を作り出していた。人々の暮らしも、一昔前は村と呼んでいたような集落が、すでに人口10万人を超える都市が形成され、いよいよこれからのさらなる発展が望まれていた。
――だが、
「しょうがないですよ。太陽系惑星の称号を欲している小惑星が次から次へと名乗りを上げていました。クワオアーにセドナ、エリス。カロンさえも虎視眈々と太陽系惑星の称号を狙っていたのです。どの星も主張はひとつ、『冥王星と我々の星との間に大きな違いはない。ゆえに我々の星にも太陽系惑星の称号を与え、一惑星としての権利を与えよ』です。でも、太陽系統治機構としては新たな加盟惑星を一つでも認めたらもはや歯止めなく次から次へと太陽系惑星を増やすことになる、と新たな加盟を認めるわけにはいかなかった。」
少女は外見に似合わず、大人びた口調で淡々とこの惑星の穏やかな終末を語る。
「だからって、この惑星が称号を捨てた上で、完全に閉鎖までする必要はないだろう。他の惑星への説得の意味だなんて、今までの長い年月をこの惑星で過ごしてきた俺たちは何なんだ。」
男の声は、静かな怒りと、しかしどうすることも出来ないという諦めとが滲んだものだ。文字通りの世界を相手取って戦う力は男にはない。自責の念だろうか、男はシャボン玉セットを傍らに置きうなだれる。シャボン玉を見上げていた少女は視線を男に移す。両親と共に、生まれてすぐにこの惑星にやってきた元気な赤ん坊。惑星と共に成長した彼もいつの間にか二十五歳。たくましく、無精ひげまで生やすようになった。二十五にもなって親しくしている女の子が未だにいないというのが、長年に渡り彼を見守ってきた少女の心配の種だったりするのだが、その想いを彼は知る由もない。その彼を、少女は穏やかな表情で見つめ言葉を紡ぐ。
「時には、大きな犠牲を避けるために誰かがそっと我が身を退くことも必要ですよ。私たちが身を引かなければ、新加盟を目指す星たちはこぞって力を行使してきたでしょう。そうなればいくら最果てとはいえ、太陽系の秩序は著しく歪んでしまっていたでしょう。私たちの総意は太陽系に争いを生みたくなかった――」
男はじっと少女の話に耳を傾けている。
「――たとえ、故郷(ホーム)を永遠に失うことになっても。」
静かに言い切って、少女は諭すように男の肩に手を添える。
「私たちの惑星は、今日でその歴史を閉じます。遺されるのは星の名と、私たちが築いた束の間の歴史だけ。」
男は少女の声に顔をあげ、問う。幼い少年のように素直に、少女に甘えるようにして。
「それじゃあ、何も残らないのと変わらない。俺たちの人生は無駄だった。親父も、母さんも、この星のために命を賭けたのに、無駄になった……!」
男はその瞳を熱くして少女に己のうちの激情をこぼす。もう戻らない両親の笑顔。惑星の礎となった誇り高い二人の両親のためにも、男はこの惑星をもっと住みよい、太陽系で最高の惑星にすると誓ったのに。
――その誓いも、もはや果たせない。
「それでも、私たちはまだ笑えますよ。」
男は、少女の表情に目を見張る。
少し距離のある発着ホームには土星行きの船が走りこみ、一陣の風が流れた。漂っていたシャボン玉が、揺れて、はじける。
少女の二つの三つ編みもまた、風に揺れる。くすぐったそうに少女は踊る髪を撫でつけ、
――笑っている。
心の底からの、紛れもない笑顔で、少女は笑ってみせる。
「……な、な、なんで笑えるんだ。何もかも終わった。俺の誓いは永遠に果たせない。ここ、惑星中心基地(プラネットホーム)も今日で完全閉鎖だ。もう俺たちが再び帰ってこれるホームはどこにもなくなっちまう。あの最後の土星行きの船に、この星が惑星である最後の日、今日までこの星に残っていた皆が乗り込めば、もうこの惑星は正真正銘おしまいなのに、なんで君が笑えるんだ、プルート!」
プルート、と。
穏やかに終末を迎える惑星の名で、冥王星(プルート)の名で呼ばれて、少女は微笑みを深くする。大したことじゃないよと、男を安心させるかのように。
観光客や異星勤めとして出張してきていたサラリーマンたちは一週間前からの便で思い思いの惑星へと帰っていった。太陽系の九つの惑星を互いに繋ぐ惑星間高速移動船(プラネットライナー)を愛して止まない熱烈なファンたちでさえも、もう二度と訪れることの出来ない駅舎やホームの映像データを存分に蓄えてから、三日前の木星行きに乗ってこの惑星を去っている。未だ名残惜しそうに、ホームで出発までの短い別れの時を過ごしているのは、この惑星で長年暮らしてきた者たちだけである。彼らにとってはこの惑星こそが唯一無二の故郷なのだ。
しかし、わずか三人の管理人を残して、この惑星から人は去る。
「本当に、終わりなんだな。」
短い髪の男は、頭上に浮かぶ巨大な衛星=カロンに向けてシャボン玉を飛ばしながら呟いた。男の生まれた惑星よりもここでは重力が弱い。シャボン玉はよく飛ぶ。あっという間に半透明のドームに触れて跳ね返る。男は柔らかく笑んだ。自慢の混合液から生まれるシャボン玉は簡単に割れるようなタマではない。
「ええ。みんな散り散りになって、新しい惑星で暮らしていくのですね。」
答えたのはベンチに腰掛けた状態の男とさほど変わらない背丈の、少女。男の作るシャボン玉を見て微笑む。ひらひらとしたスカート姿に、肩までの髪を綺麗に二つ分けて三つ編みにまとめていて、その澄んだ瞳はどこか寂しさを湛えている。
「あぁ。しかしあっけないもんだな。太陽系統治機構のお言葉一つで、一つの惑星が文字通り消えちまうんだから。」
男は目の前の広大な畑に視線を移した。そこに生い茂る緑が男に深い感慨を抱かせて止まない。太陽系惑星として最後に発見されたこの星にも畑の食物は根を張り、人間からしてみれば広大限りないその星の地平線の先には、新たな森が独自の生態系を作り出していた。人々の暮らしも、一昔前は村と呼んでいたような集落が、すでに人口10万人を超える都市が形成され、いよいよこれからのさらなる発展が望まれていた。
――だが、
「しょうがないですよ。太陽系惑星の称号を欲している小惑星が次から次へと名乗りを上げていました。クワオアーにセドナ、エリス。カロンさえも虎視眈々と太陽系惑星の称号を狙っていたのです。どの星も主張はひとつ、『冥王星と我々の星との間に大きな違いはない。ゆえに我々の星にも太陽系惑星の称号を与え、一惑星としての権利を与えよ』です。でも、太陽系統治機構としては新たな加盟惑星を一つでも認めたらもはや歯止めなく次から次へと太陽系惑星を増やすことになる、と新たな加盟を認めるわけにはいかなかった。」
少女は外見に似合わず、大人びた口調で淡々とこの惑星の穏やかな終末を語る。
「だからって、この惑星が称号を捨てた上で、完全に閉鎖までする必要はないだろう。他の惑星への説得の意味だなんて、今までの長い年月をこの惑星で過ごしてきた俺たちは何なんだ。」
男の声は、静かな怒りと、しかしどうすることも出来ないという諦めとが滲んだものだ。文字通りの世界を相手取って戦う力は男にはない。自責の念だろうか、男はシャボン玉セットを傍らに置きうなだれる。シャボン玉を見上げていた少女は視線を男に移す。両親と共に、生まれてすぐにこの惑星にやってきた元気な赤ん坊。惑星と共に成長した彼もいつの間にか二十五歳。たくましく、無精ひげまで生やすようになった。二十五にもなって親しくしている女の子が未だにいないというのが、長年に渡り彼を見守ってきた少女の心配の種だったりするのだが、その想いを彼は知る由もない。その彼を、少女は穏やかな表情で見つめ言葉を紡ぐ。
「時には、大きな犠牲を避けるために誰かがそっと我が身を退くことも必要ですよ。私たちが身を引かなければ、新加盟を目指す星たちはこぞって力を行使してきたでしょう。そうなればいくら最果てとはいえ、太陽系の秩序は著しく歪んでしまっていたでしょう。私たちの総意は太陽系に争いを生みたくなかった――」
男はじっと少女の話に耳を傾けている。
「――たとえ、故郷(ホーム)を永遠に失うことになっても。」
静かに言い切って、少女は諭すように男の肩に手を添える。
「私たちの惑星は、今日でその歴史を閉じます。遺されるのは星の名と、私たちが築いた束の間の歴史だけ。」
男は少女の声に顔をあげ、問う。幼い少年のように素直に、少女に甘えるようにして。
「それじゃあ、何も残らないのと変わらない。俺たちの人生は無駄だった。親父も、母さんも、この星のために命を賭けたのに、無駄になった……!」
男はその瞳を熱くして少女に己のうちの激情をこぼす。もう戻らない両親の笑顔。惑星の礎となった誇り高い二人の両親のためにも、男はこの惑星をもっと住みよい、太陽系で最高の惑星にすると誓ったのに。
――その誓いも、もはや果たせない。
「それでも、私たちはまだ笑えますよ。」
男は、少女の表情に目を見張る。
少し距離のある発着ホームには土星行きの船が走りこみ、一陣の風が流れた。漂っていたシャボン玉が、揺れて、はじける。
少女の二つの三つ編みもまた、風に揺れる。くすぐったそうに少女は踊る髪を撫でつけ、
――笑っている。
心の底からの、紛れもない笑顔で、少女は笑ってみせる。
「……な、な、なんで笑えるんだ。何もかも終わった。俺の誓いは永遠に果たせない。ここ、惑星中心基地(プラネットホーム)も今日で完全閉鎖だ。もう俺たちが再び帰ってこれるホームはどこにもなくなっちまう。あの最後の土星行きの船に、この星が惑星である最後の日、今日までこの星に残っていた皆が乗り込めば、もうこの惑星は正真正銘おしまいなのに、なんで君が笑えるんだ、プルート!」
プルート、と。
穏やかに終末を迎える惑星の名で、冥王星(プルート)の名で呼ばれて、少女は微笑みを深くする。大したことじゃないよと、男を安心させるかのように。