里美ハチ犬伝
勿体無いほどに牛乳を地面へと溢してしまっているが、それでも犬は多少なりとも必死に牛乳を飲んでいるようだった。
溢れた牛乳は、後ほどスタッフが美味しく頂いたことは、説明する必要もない。
そんな食事光景に、里美たちに笑いが溢れる。
犬がパンを食べ終わったら遊びに行こうと思っていた矢先、里美たちの学級委員長に連れられて、白髪雑じりの初老の男性がやってきた。
中休み、渡り廊下で里美たちを見ていた……監視していた生徒は、委員長である平原愛だった。
それについては、里美たちは知る術も無い。そして、
「誰だ、あれ?」
掛布が委員長の隣にいる見慣れぬ人物に対して疑問の声をあげる。
「それ……マジで言っている? 校長先生だよ」
渚は呆れながら初老の男性が何者なのかを説明すると、掛布は思い出したのか「ああっ!」と声をあげる。
なぜ、委員長と校長先生がここにやって来たのか?
その理由は、何となく予測できていた。
「なるほど。あれが、噂の迷い犬ですか」
校長先生が来た理由は、やはり犬だった。
「そうです。えっと……ラッシー・ヒーローアレックス・ハチペペチロルです」
里美が明るく答えるも、すぐに宏子が「ラッシーラック・ヒーローアレックス・ハチペペシロチロルだよ、里美ちゃん」と矯正する。
「おや、もう名前も付けているのかい?」
校長先生は優しく笑う。
「校長先生。この犬を学校で飼ってもいいですよね?」
里美たちの嘆願に、校長先生の表情が曇った。
それは難色を示すという顔だった。
「大変申し訳ないが、学校でその犬は飼えないな」
「え〜〜!」
校長先生の当然の言葉に里美たちは一斉に非難の声をあげ、相手が校長先生にも関わらず責め立てる。
「どうしてですか!」
「ウサギとか鶏とかは飼っているのに、犬はダメなんですか?」
「校長先生が正しいぞ!」
「私たちがちゃんと世話しますから、犬の一匹ぐらいいいじゃないですか!」
校長先生の立場的の本音としては、厳しい態度を示し、今すぐ犬を学校から追い出したいのだが……。
生徒たちの気持ちを尊重せず、頭ごなしに行動をするのは、生徒たちの心に傷を付けるかも知れないという考えが働く。
「まぁまぁ。君たちの気持ちは解からなくもない……。ただ、ここは動物園ではなく学校。君達に勉強やこういった社会のルールを教える所でもある」
出来る限り優しく述べるも、
「で、でも、私たちが飼わなかったら、ラッシーラック・ヒーローアレックス・ハチペペシロチロルは保健所に連れていかれるんですよね……」
宏子は泣きそうな顔で、校長先生に訴えかける。
「それは……」
長い犬の名前はよく言えるな、という感心はさて置いて、保健所のことを知っていることに感心するも、野良犬を学校で飼うということは感心できないものだった。
そして少し厳しい目つきになり、
「君たちが、あの犬に噛まれていないから、まだ良しとしますが、あの犬は狂犬病とか病気を持っているかも知れない。また、君たちは良くても、他の生徒……特に一年生や二年生の低学年の生徒達が噛まれたりと、問題が発生するかも知れません。まぁ、その犬が元で授業が中断したという、問題が既に発生しているようですからね」
校長先生の言い分に、里美たちは押し黙るしかなかった。
意気消沈する生徒たちに校長先生は、ある一つの解決策を提示する。
「立場上、私が言えることは“学校”では飼ってはダメだということ。学校で飼うことはダメだが、誰か君たちの家で飼える人はいないのかね?」
里美たちは、お互いの顔を見合わせ、
「ん〜どうだろう。ウチ、猫を飼っているし」
「お母さん……、めっちゃ犬嫌いだしな……」
「私のところはマンションだから、動物を飼うのは禁止なんです」
もし誰かの家で飼えることが解かっているのなら、学校で飼おうという話が出る訳が無い。
里美も宏子に一応訊いてみる。
「ヒロちゃんの所は?」
「ウチは……。お母さんが動物アレルギーで、犬とか猫は飼っちゃダメなの」
「そうか……」
「里美ちゃんのところは?」
「ママに訊いてみないと解からないかな」
「そうだよね……そうだ。校長先生の所は、どうですか?」
宏子は、自分たちの話し合う様子を眺めていた校長先生に訊いてみた。
「残念だが、ウチのカミサンは二宮先生と同じで犬が大の苦手でね……」
答えは里美たちと同じようなものだった。
「そうだ委員長の所は?」
渚は、みんなと距離を取っている校長先生を連れてきて役目を終えていた委員長にも話を振る。
「わ、私の所は、お母さんとかに聞いてみないと……。でも、間違いなくダメだと思う……」
などと即断で「飼える」という人は居なかった。
「とにかく、まずは君たちの親御さんに訊いてみないといけないみたいですね。それと学校では犬を預かれないから、今日は誰かの家に連れていきない。それと、今回の件は不問としますが、もしまた犬を連れてきたら、その時は問答無用で対処するので気を付けるように」
静かな口調ながらも校長である貫禄めいたオーラで威圧すると、後は里美たちに任せ、その場を後にした。
渚が中心となり、話を整理する。
「とりあえず、この中でラッシーロック・ヒーローアレックス・シルチロルを飼ってもいいか説得できる人が、連れて帰った方がいいかな」
「そうだね」
「だったら、ラッシーラック・ヒーローアレックス・ハチペペシロルを飼える人が、正式の名前を付けられるってしないか? やっぱり名前が長いのはあれだしな」
揉めないように、みんなの名前を付けたものの、今も所々名前を間違ってしまっている結果を元に、やっぱり短い方が良いことに気付く。
「やっぱり、ウンコバカアホ太郎にしとけば良かったんだよ」
掛布の発言は当然のように無視されて、掛布の周りのみに木枯しが吹きぬける。
「そうだよね。そのぐらいの権利は有っても良いよね」
「それじゃ。今日、ラッシーアレックス・ハチペペシロチロルを預かる人を決めないとな。今日、預かる人が付けた名前をラッシーラックうんたらの、ひとまずの正式の名前にしよう?」
『賛成』と、一同に声が上がる。
「それじゃ、預かるのは誰にする?」
「はいはい!」
真っ先に手を上げたのは、里美だった。
激しい追いかけっこをして汗を流した里美と犬。犬の里美の中で友情が芽生えたのだろうか、是非とも飼いたいと思うようになっていた。
「それじゃ、今日は藤井がラッシーラック・ヒーローアレックス・ハチペペシロチロル……藤井が付けた名前は何だったけ?」
「ハチだよ! まかせておいて。なんとか、お母さんを説得して飼うようにするからね!」
里美たちの気持ちをよそに、当事者である犬“ハチ”は、自分に関係無いことのように再び欠伸をしたのであった。