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ときには映画の話を

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忙しい日が続くと頭の仲が数式とキーボードと表と進行状態とでいっぱいになり、洗濯機の中のようにかくはんされつづけているそこには食べ物のことを考える余地はない。
 そんな日を一週間つづけたあとで、とつぜんその回転にざらざらした砂糖の舌ざわりが迷い込んだ。
 あっと思っているあいだにそれは茶色いドーナツの映像になった。それに静かな湯気をたてているうすっぺらでやさしいアメリカンコーヒー。ああ、たべたいたべたい、と思っているうちにいつのまにか電話をかけていた。
 コール二回で彼女は電話に出た。
「仕事中ですか」
「私は違うけどあなたはそうでしょ」
「映画見に行かないかな」
「今から?」
「何でもいいんだけど」
 ふうん、と彼女はつぶやき、先月公開されたアメリカ映画のタイトルを口にした。お風呂用品と睡眠具を扱う通信販売業者がバスルームで殺される推理もの。僕が気に入っている監督の新作だ。彼女とは映画の好みが合うのだ。
「でもまだ時間あるわよ、ええと、21時から」
「いいよ。ほら下のドーナツショップにいるから、いつもの」
「はあい」
 まのびした声。

 ドーナツを食べる店をほかにしらない。映画館の入ったデパートの一階にあり、この店が閉まっているところを僕は見たことがない。映画を見るときはいつもここで待ち合わせる。
 彼女とは小学生のころからの友人だ。
 恋人同士だったことは一度もない。班・委員会・塾・部活動・中学・高校・大学のいずれにおいても、彼女とかぶったことは一度もない。彼女と僕との共通項といったら、映画の好みが同じなことだけだ。
 彼女が小学校三年生のとき、作文の宿題が出て、一人一人それを国語の時間に読み上げた。
 彼女は、日曜に家族と見た映画の警部のまゆげが太くてとてもかっこよかった、と書いた。
 その日僕は彼女に、まゆげのことはよくおぼえていないけど、あの警部はとても可笑しかった、と言った。
 そうして僕らは友達になった。

 まるいシンプルなかたちのドーナツを、二皿に山盛りぶんつみあげて砂糖をかけて幸福にかじっていると、彼女が現れた。
 あらわれた、という表現がぴったりくる。
 彼女は人目をひかずにおれないタイプの人間だ。流行りの、と呼ぶにはいささかいきすぎの感の強い髪形と服装、化粧。僕にはどうもぴんと来ないのだが、彼女は一般的に美人と呼ばれる顔立ちで、小学生のころから非常に異性にモテた。
 今はその容姿を生かし、女優をやっている。いつも派手な役。悪女が多い。
 その悪女が、僕を見て顔をしかめた。
「なにそのドーナツの山」
「何って言われてもドーナツですよ」
「量よ量。あー信じられない。馬鹿みたい」
「失礼な。僕がいくつドーナツを食べようと僕の勝手です。それに僕はこの一週間カップラーメンしか食べてないんだから」
 僕がそう言うと彼女は一気に同情的な顔になり、きびすを返してドーナツ販売のレジへと向かった。
 そして帰ってきて、僕の皿のドーナツの上の砂糖の上にカレーパンを置いた。
あきれて見上げると、彼女の目とぶつかった。
「野菜」
 勝ち誇って言われた。
「のせないでくださいよ勝手な人だなあ」
「どっちが?」
「食べないんですかドーナツ」
「いらない」
 彼女のトレイにはコーヒーしか載っていない。
 コーヒーを澄ましてすすっていた彼女が、ああそうだ、とつぶやいた。ちっぽけなかばんをさぐっている。
「あげる」
 出てきたのはチケットだ。
 二枚とりだし一枚を僕に渡す。見て僕は、なんだ、とつぶやく。
「まゆげ太いですね」
「よくわかってるじゃない」
 ふふんと笑われた。なんで勝ち誇ってるんだか。
 それは今から見ようとしている映画の前売りのチケットで、主演の探偵のまゆげは実に見事だった。好みの変わらない人だ。
「めずらしいですね前売り買ってるの」
「もらったのよ」
「よくわかってる人がいるもんだ」
 ぴらぴらと前売りを振っていると、ああそうだ、と僕も思い出した。かばんをさぐった。
「お土産です」
 温泉地の包装紙につつまれた箱を置く。彼女はあけていい? とも聞かず、ぺりぺりと包装紙を破いている。もうちょっときれいに剥いたらどうなんですかと僕が言う。うるさいわねと彼女が言う。
彼女はそして中身を見て、あきれたように笑った。
 あきれたような笑いは彼女が僕と付き合う上で重要なツールらしい。僕の苦言と彼女の笑い。変化なしの便利なツール。
 箱の中から出てきたのは、風鈴だ。
「なんで?」
 彼女は笑って僕をにらみつける
「なんでいまごろ風鈴なのわけわかんない」
「社員旅行は夏だったんですよ」
「しかも悪趣味な柄!」
「地方特産ですよ、自慢の一品らしいですよ、可哀想じゃないですかそんなこといったら」
「あいかわらずほんとにおかしい人ねえ!」
「なに言ってるんですかほんとに。僕はおかしいかもしれないけどあなたほどじゃない」
 彼女の細い指の先に、風鈴の釣り鉤が引っかかっている。

 映画の話。
 僕らは二人とも、マニアックな映画ファンだったことは一度もない。技法のことはまったく知らないし、俳優の名前にもさほど詳しくない。僕には好きな監督が一人いるが、甘いものを食べるシーンがやたら多いから好きなだけのことだ。彼女はまゆげの太い俳優が好きだが、まゆげさえ太ければなんだっていいらしい。
 とてもくだらないことだ。くだらなくていいのだ。僕らの関係なんてくだらなくてちっぽけなものだ。それでいい。
 だからこそ変わらずいられる。
 どうでもいいくだらない話の合間に、その延長線上にあるもののように、彼女が言った。
「結婚するの」
 あんまり突然だったので、一瞬苦言も皮肉も忘れた。
「え?」
「写真見る?」
 彼女はちいさなかばんから手帳を取り出し、その間から大事そうに写真を一枚取り出した。彼女らしくもない、とてもやさしげな手つきだったので、僕はぎょっとして動揺する。
 渡された。
「……まゆげ太くないじゃないですか」
 かろうじて僕が言うと、彼女は、よくわかってるじゃない、と笑った。
「人生ってそういうものよ」
「なんですかそれ」
「あなただって明日には糖尿病になって、一生甘いものが食べられなくなるかも」
「……嫌だなあ」
 思わず本音のところを漏らしてしまった。
 彼女がくすくす笑った。
 窓の外が暗い。
 これだけ長くつきあっているのに僕らはお互いの世界をかすかにしか知らない。それはとても得がたいことだった。ただただ小学生のころから変わらずに、映画の話をして。
 夢でしかない、幻想でしかない、かすかな遠い存在として。
 彼女が笑い、僕もつられて笑う。
「おめでとうございます」
「ていうかなんで知らないのかが不思議よ不思議。先月記者会見もやったのに。知らないだろうと思ったけど」
「へええらくなったもんだよりによってあなたが」
「よりによってってなによ」
 知らないだろうと思ったけど、といったときの彼女がとても空想的で、僕らはいつでも同じ地平に立ってお互いを見ていることを再確認する。人間じゃなくていい。なまみは要らない、夢でさえあってくれればいい。
作品名:ときには映画の話を 作家名:哉村哉子