ココロの距離
【8】-3
『用はすぐ終わるし、終わったら帰る。ちょっと会ってほしいだけだから』
真剣な声音に、次第に緊張してくる。
「……用事って?」
『駅前にいるから、10分ぐらいで着くと思う。それじゃ後で』
こちらの質問には応じず、柊は電話を切った。
通話ボタンを押すのも忘れ、しばし奈央子は携帯を手にしたまま、立ち尽くしていた。
――柊が、今からここに来る。
全く予期していなかったので、まず心に浮かんだのは、どうしようという焦りの念だった。その後からじわじわと、不安と困惑が胸のうちに広がる。同時に感じた期待は隅に押しやった。勝手に期待して、その通りにならなかったら、より落胆は激しいものだから。
ともかく、なるべく落ち着いて応対しないと。そう考えた矢先、インターホンが鳴った。出ると予想通り柊だったので、キーを操作し、エントランスの扉を開ける。
しばらく待つうちに、玄関で再びピンポンと音がする。胸に手を当て、呼吸を落ち着けてから、奈央子はドアを開いた。
コートの肩や、髪に薄く雪を積もらせた柊が立っていた。どうやら雪が降り始めたらしく、外の冷気は帰ってきた時よりも強くなっていた。わずかに逡巡したが、
「……とりあえず、入ったら? コーヒーかなにか作るから」
やはり寒さが気になったので、こう言う。だが柊は首を振った。
「いや、ここでいい。これ」
と、奈央子の目の前に差し出したのは、小さな紙袋だった。反射的に受け取ってから、袋にプリントされた文字を見て驚く。
「これ、って」
「返事はいつでもいいから。じゃ」
と言うと柊はすぐに背を向け、早足で階段の方へと向かった。奈央子は慌てて、紙袋の中の物を取り出し、ラッピングを取り払う。小さな箱の中身を目にして、頭が真っ白になった。
数瞬後、奈央子は小箱を片手に家の鍵をつかみ、コートを羽織りながら駆け出した。急いで3階分の階段を下り、エントランスの外へ出る。
柊は、駅の方角へさらに数十メートル進んだところにいた。こちらの呼びかけに気づき、足を止めて振り向く。奈央子は、手の小箱を彼に向かって差し出した。
「これ――」
「……気に入らなかったか?」
「そうじゃなくて、どうしたの、いったい」
数ヶ月前、駅ビルで会った時に自分が柊に教えたプラチナリング。箱の中身はそれだった。
確か14・5万するはずの品物だ。そんなものをポンと買えるだけの余裕が、柊にあるとは絶対に思えない。
ああ、と柊はうなずき、
「バイト増やして資金稼いだ。まあ、実はちょっと足りなかったから、食費削ったりもしたけどな。入荷が間に合うかが心配だったけど、昨日ギリギリで入ったって店から連絡が来て」
「……どうして、わざわざこれを?」
その問いに、柊はしばらく黙った。無言のまま、見たことがないほど真剣な表情で、こちらを見つめる。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「瀬尾に、たぶん奈央子は信じるきっかけがほしいんだって言われて、考えた。そのためにどうしたらいいのか。――考えてたら、それのこと思い出した。おまえも、もらえたらやっぱり嬉しいって言ってたこと」
……確かにそうは言った。けれどあれはたとえ話で、話のついでに聞かれただけで……
「おまえが気に入るかどうかはわからないけど、今できる精一杯の表現は、それぐらいしかないと思ったから。もしダメなんだったら、また考え直すつもりだけど――」
柊が、数歩前へ踏み出した。手を伸ばせばすぐに届く距離まで近づく。
「――これだけじゃ、まだ信じてもらえない?」
ささやくような言葉が、雪花の舞う空間の中に響いた。その響きが、徐々に奈央子の心にも広がっていく。
心を縛っていた思いが静かに解けた。頑なに閉ざされたものが胸の奥底でゆっくりと開き、何かがあふれてくるのを感じる。あたたかなもので心がいっぱいになり、体の中を、指先まで満たした。
……気がつくと、涙が頬をつたっていた。嗚咽がもれそうになるのを、口を押さえてこらえる。
柊が、焦ったような慌てたような口調で、
「あ、っと……やっぱり気に入らなかったか」
後悔をにじませてそう言うのに、奈央子は泣き顔のまま首を振る。
「……違う、そうじゃないの。なんて言ったらいいかわかんなくて、……その」
胸の奥に、言葉を探した。いくつも浮かんでは消え、最後に残ったのは、とても単純な言葉だった。
「――ありがとう。すごく嬉しい」
奈央子がそう言うと、柊は目を大きく見開いた。何回かまばたきをした後、ようやく言葉の意味が飲み込めたかのように表情を和らげる。
とても嬉しそうな、やわらかな微笑みだった。
奈央子の手から小箱を取り、蓋を開ける。取り出したリングを、柊はためらうことなく奈央子の左手の薬指に通した。
びっくりして、思わずまた目を上げる。
柊は微笑みながら手を動かし、そっと奈央子の涙をぬぐった。その手が頬に添えられ、顔が近づいてくる。奈央子は自然に目を閉じた。
直後、唇のぬくもりが重なる。……お互いに初めての、恋人としてのキスだった。
―終―