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まみあな

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手伝ってよ。雪村からそういう出だしの電話がかかった。なんの前置きもなくそこから始まる電話。どうせ暇なんでしょう。言いきる口調。雪村らしい電話の掛け方だった。
 暇、それはその通りで、暇だとろくなことを考えないというのも事実だった。暫く鳴らなかった携帯電話が突然鳴るとぎょっとする。そしてそのあとなぜか救われたような気分になるのはどうしてだろう。ああこれでばかなことをせずにすんだ、そう思ってほっとするのは。そして、その電話が求めてくることには大抵従ってやろう、という気分になる。電話が求めてくるのであって、誰か人間が求めてくるのではない。その向こう側にいる顔はまったく関係なくなり、電話の指示に随う。
 手伝ってよ。


「帰るところがないっていうのは」
 高い高い脚立の上から、雪村が見下ろして笑う。いや、笑ってはいいないのかもしれない、見えない。声の響きは、からかわれているような音だった。
「予想してない展開だったかも」
「俺は有難いよだから」
「笑えるなあ」
「笑ってろ」
 脚立の上を見上げないで、床ばかり見ていた。床に散らかった、本、本、本、本。ずいぶんと広がる床の上は、一面本の山だった。足の踏み場は自分でよけて作らなくてはならなかった。
 最初ここに入ったときからずっと、雪村のほうは脚立の上にいて、やつがどうやって出入りしているのかは分からない。入ってくるまで足の踏み場はなかったというのに。本を踏んで出入りしていたのだろうか。
 本を大きさ別にえり分けて積み上げる。分かる範囲で種類も分けてよ、とは言われているが、暗くて書名がよく見えない。とりあえず、明らかに古いとわかるものだけ、別の山にしておく。
「ここに泊まるぶんには全然かまわないから、いいんだけどね、本当にいいの、ここで」
 笑うような内容ではないと思うのだが、それでも雪村の声はかろやかだ、笑ってるみたいに。いいよ別にと返事をする。屋根があればいいのだ。
「布団あとで母屋から持ってこようか」
「そりゃうれしいけど、悪いななんか」
「だってさすがにここに直に寝るのどうなんだよ」
 笑っているみたいに聞こえる。
 首が固まって痛い。頭を上げて、首と肩を動かしていると、自然に見回す形になる。高い天井の間近まで、壁一面にぎっしりと本がつめこまれている。だれがあんなところまで詰めたのだろう、そしてだれが読むのだろう、いつから読まれていないのだろう。雪村はもうずいぶん長い間、ここの整理をしているのだそうだ。
 天窓が遠く、たよりない光を落とし、それは舞い続ける埃の影を映すだけの意味しか持たない。外は強い日光に晒されているはずなのに、ここにいると季節を忘れる。
「案外涼しいな」
「え、ああ、そうだね、山の上だから」
「そういう理由?」
「じゃない?」
 ここは雪村の家だ。


 ハルカはいつも茶碗を投げてくる。
 机でなくて茶碗、辞典でなくて茶碗、ノートパソコンでなくて茶碗、一升瓶でなくて茶碗なわけで、けれどノートでなくて茶碗で、クッションでなくて茶碗で、紙コップでなくて茶碗なのだ。それがハルカにとってづいう意味を持つのか、分かるような気分になりながらそれを避けるので、茶碗はうしろで割れる。
 ハルカはいつも泣きそうな顔をして茶碗を投げてくる。泣かせているのは自分だと分かっているのに、どうして冷静に避けているのか、分からないのだ。ハルカの気持ちは分かっていて、自分の気持ちはまるで分からないのだ。
 帰れば茶碗を投げてくることが分かっていて、だから帰る前には必ず百円均一に寄って、茶碗を買っている自分がいる。どうせおまえ茶碗投げられてそれで避けて、それでまた割れるから要るだろ、と自分に向かって予告するように、買った茶碗を新聞紙で厳重にくるんでいる自分がいる。どうせ割れるくせになあ、割れないように包んで、持って帰ったって。
 どうせまた割れるのか。
 そう思うと帰りたくなくなる。
 ハルカがきっと泣くのに。


 祖父の話。というのは祖父がした話、ではなくて、母親がした祖父の話だ。祖父は母親にとって、立派な父親ではなかったらしい。祖母よりはましだったらしいが。それにしたってあのひとがしっかりしてないからおばあさんにも逃げられたのよ、ということらしい。
 祖母は母親が子どもの頃から体の具合が悪く、そのせいで母親は祖父の親戚筋に預けられて育った。母親が言うには、あたしがあんたくらいの頃に(つまり十代の終り頃に)おばあさんは体の具合が良くなって、突然家出したのよ、ということらしい。笑える。
 あんたはおじいさんにそっくりよ。
 その祖父がどうして立派でない父親なのか分からないけれどそうかもしれない、似ているかもしれないし、似ているとしたらそれは美談ではないのだ、決して。
 祖父に会ったことはない。死んだので。


 電車を降りたとき、ずいぶんすっきりしている自分に気づいて苦笑した。
 駅から、あああの山だな、と見上げた。小さな駅なのに駅員がきちんといて、暇そうに掃除をしていた。どこにもかしこにも、暇はあふれている。暇が人を殺す。忙しい最中の暇は敵だ。疑問が浮かぶので。
「登山? 観光?」
「いいえあの山の上にある家なんですけど、雪村っていう……観光ってここなんかあるんですか」
 そう聞き返すと、駅員はふん、と鼻を鳴らし、一度駅舎に入って出てきて、小さなパンフレットを渡した。――市観光案内……山の上のバラ園、入場無料。
「そこの山だよ」
「いや、じゃなくて雪村って」
「雪村ねえ」
 ふん、とまた駅員は鼻を鳴らし、山を見上げた。山の上ねえ。
「そんな家があるのは知らなかったね、僕ここ長いんだけどね」
「古い家みたいですけど」
「なに、親戚?」
「友達です」
「ふうん」
 別れるとき、冗談にしては真面目な口調で、狸が出るから化かされないように気をつけなよ、と駅員が言った。たぬき。
 笑って改札を抜けた。


 逃げてんの、と、雪村が言った。
「そうかもな」
「かもだって」
「かものどこが悪いんだよ」
「べつに」
 逃げることが習性になってしまって、変えられなくなっている。替えられなくなっている。帰れなくなっている。どうせハルカは泣くだろう。いつか泣くだろう。今は泣きそうなだけでもいつか。雪村が本をぱらぱらとめくる音が聞こえる。読めるのか、こんなに暗いのに。誰がこんなに集めたのか。どうして集めたのか。集めた奴はこれを全部読んだのか。
 そういえばいつ死に損ねたのだろう、ずっとそうしようと思っていたような気がするのに。
「学校はどうなの」
 雪村が突然聞いてきた。
「いや、それこそ別に。普通。忙しいけどそういうもんだろ。何が役に立つことなんだかわかんなくなるけどそれだって時間たってみないとわかんないことだし」
「じゃなくて、ていうか、今日は金曜でしょう? 行かなくていいの」
 いいわけめいた早口に、あくまでもかろやかに雪村が言う。避けるみたいに、かわすみたいに、でもそのうしろで茶碗の割れる軽い鋭い音は聞こえない。避け方が上手いのだ。
「サボってる」
「ふうん。ごはん食べる?」
 雪村の声が、光に似て遠く。
「今はいい」
「食べたくなったら言ってよ作るから」
作品名:まみあな 作家名:哉村哉子