春の大風
発情期の猫の声は知っている。最近毎日どこかで声がする。泣き叫んでいる赤ん坊の声に似ている。死にそうな声。あんな思いをして子孫を作る。ひどい努力して作る。
ひどい努力して続いていく。
「ほら力入れて」
それっとおばさんが声を出した。がたんと音がした。がたがたがたっ。扉がはじけた。
扉がはじけて、なかから、
大きな風!
まきこまれてうすっぺらな紙切れのように飛んだ。おばさんがゆがんで見えた。手を振る。ちゃんともどるのようと声がする。ちゃんと、自分の、体に、もどるのよう。
死にそうでも死なずに。
続くのよう。
なまぬるい暖かいあまったるい風だった。カリンはちみつによく似た、うっとうしいくらい生きているものの匂いに似た風。
自分の中から何かがはがれて飛んでいく感覚がした。
目が覚めたら自分がぶれているような気がして、びっくりした。ずるっと何かが体の中に入ったような、逆にずるっと何かの中に入ったような、感覚がして、驚いて飛び起きた。飛び起きて、あれっと思い、額に手を当ててみて、それじゃあわかんないやとまくらもとの体温計をわきの下に挟んだ。それから、夢の中のおばさんの、続くのよう、という声を思い出した。死ぬもんか風邪ぐらいで。おおげさだなあ。
自分の体にもどるのよう。
そう言う声も思い出して、わーじゃあ危なかったのかな、と思った。それでも、危なかったのかな。まくらもとにはカリンはちみつの湯割りもあった。もうすっかりさめてつめたくなっていた。飲むと、ものすごく甘かった。うわ甘いと呟いて、でも飲み干した。
テレビをつけると天気予報だった。
昨夜春一番が吹き荒れた影響で……
「はるいちばん」
耳に入ったその音をぼんやりと復唱した。へえ。ああそうか、と、何が理由だか分からないけれど納得して、二三度頷いた。びゅうっと吹いた風。春一番のうっとうしいくらい甘い風。あれがそうか、多分そうだなあ、変なの。
服を着替えて外に出て、コンビニに向う途中の家には和風の引き戸のついた家があって、おばさんは今日は黄色いカーディガンを来ていて、こっちを見てにこにこした。昨日はどーも、と言ったら、あら風邪治ったの良かったわねえ、と早口で言い返された。
「カリンはちみつ、効くでしょう」
「……ええ、そうですね」
はぐらかされたような気分で、それでもにこにこして、頷いた。
友達に電話をすると、あっあんた大丈夫なの、今年のインフルエンザたち悪いらしいけど、と言われて、もう直った、と言い返すと、嘘だーはやいねえと言われた。頭の中を甘い風が吹いて、空は曇っているけれど、もう春だ。
でもくしゃみは出た。
花粉症なのは、花粉症だった。
(2005/春)