ぼくらは軍隊
今日も仕事が見つからなかったので佐々木くんはやれやれとためいきをついて帰途につく。職安から家までバスで二十分、それから十分歩く。きみっの名前は将軍♪ と鼻歌を歌いながら帰途につく。
きみっの名前は将軍♪
ぼくっの名前は三等兵♪
坂の下のスーパーに寄ってから、坂の上まで歩く。佐々木くんは坂の上のちっぽけなアパートに高橋さんと住んでいる。
軍服を着た高橋さんはこたつにもぐりこんでみかんをむいていた高橋さんはもうほとんど頭がまっしろになった六十前の男性である。六十前なのに頭がまっしろなのはすこし早いと言えるだろう。しかし若白髪(六十前の白髪は若白髪と呼んでいいのかよくないのか微妙なところだが)の人はハゲないというので、いいっすねと佐々木くんは思う。佐々木くんの生え際はすでにあやういのである。まだ二十代だというのに。
高橋さんは頭の毛もまっしろだが、頭の中身もかなり白い人である。
「おそかったね佐々木くん。今日の戦況を報告したまえ」
「六時は別に遅くないと思うんですけどねお義父さん」
「今日は何か戦果があったのかね」
「ダメでした」
「駄目か」
「はい」
「ばかものッ」
小さい声でしかしするどく高橋さんは言った。そrから、こたつの脇に常備してある電気ポットを引き寄せて、これまたこたつの上に出しっぱなしの急須にお湯をそそいだ。そのあと、高橋さんは立ちあがって流しに行って湯呑をひとつ洗って拭いて持ってきた。高橋さんはそれを、こたつの上に置いたままの自分の湯呑と並べた。そしてまたこたつにもぐりこんだ。もぐりこんでいるところで、佐々木くんに気がついて、見上げてきた。
「何をぼおっと立っとるんだ佐々木くん。入りたまえ」
「はあ。入る許可をいただけますか」
「うむ。許可する」
それで佐々木くんはようやくこたつにもぐりこんだ。もぐりこみながらコートを脱いで、まるめて脇に置いていると、また、ばかものッ、と言われた。
「そんなところに置くんじゃない。きちんとハンガーにかけなさい」
「はあ」
「返事はきちんと」
「はい」
佐々木くんはもそもそとこたつから這い出して、玄関まで戻ってそこのコート掛けにコートをかけた。
高橋さんの、ばかものッ、はとてもするどい。
何しろカタカナの「小さいツ」である。ひらがなの「小さいつ」ではない。鋭さが違う。違うよなあ、と、コーヒーの香りを批評するように首をひねりながら、思う。
佐々木くんが戻ってきて再びこたつにもぐりこむと、高橋さんは出がらしのお茶をすすめてくれた。みかんもすすめてくれる。お礼を言って(あ、すんません、ありがとございます)みかんをむく。
「そんなことだからいつまでも三等兵なんだぞ佐々木くん」
「はあ。すんません」
まじめに言われて、まじめに返した。
みかんをむきながら高橋さんを見た。軍服を着た高橋さんをじっと見ていると、3Dの絵が見えてくるみたいにじわりと、高橋さんの本当の服が見える。青いチェックのシャツ。高橋さんは綺麗好きだ。折り目正しいぴんとしたシャツ。
高橋さんの頭のなかみがかなり白くなっているのはたしかだろうが、どれくらい白くなっているのか佐々木くんにはよくわからない。会ったばかりの頃からそうなのだ、それはまあ、会ったのはごく最近だが。ミワ子も、私が小さい頃からそうなのよお父さんって、と言っていたから、昔からそうだったらしい。君の名前は将軍、僕の名前は三等兵。
「でもお義父さん、俺とお義父さんのふたりしかいないんだから俺の階級、階級っていうんですか、そういうのもっと高くてもいいんじゃないですか。よくわかんないけど」
「駄目だ」
「大佐とかいろいろあるんでしょ」
「大佐はミワ子だ。君なんか三か月前に入ったばかりじゃないか」
「よくわかんないんですけどね、俺はお義父さんの養子になったわけじゃないのに何に入ったことになってんでしょうね、たぶんミワ子は俺の籍に入ったことになってたんだと思うし」
「腹が減ったな」
「そですね」
「朝からみかんしか食っとらんのだ」
「そりゃあ大変だ」
佐々木くんは出がらしのお茶を飲み干す。
「何食いたいですか。新製品のカップ麺は買ってきましたけど」
「何でもかまわないがカップラーメン以外のものも作れるかね」
「はあ、自信ないですけどがんばってみます。何がいいですか」
「うむ」
高橋さんはみかんのふさのすじを慎重にむいている。
「おいしいものだ」
「おいしいものかあ……」
料理人の腕が悪いからなあ、と佐々木くんは呟いて、それからミワ子の部屋にエプロンを(しないと怒られそうなので)探しに行った。目の端で高橋さんを見る。高橋さんをうっすらと覆う紺色の軍服。頭が白くなってるのは俺の方だったりして、と思ってみる。
「まだそこに住んでるの?」
木村冴子は純粋に驚いた声でそう言った。彼女はミワ子のともだちだ。ちいさな印刷会社で働いている。独身である。まだそこに住んでるの。
「そうだよ」
「別にそこに住まなくたっていいのよ佐々木くん」
「いやあ」
「実の親じゃないんだし」
「そうだけどさ」
「家賃払ってるの佐々木くんでしょ」
「まあ、それもあるし」
「だから言ってるんだけど」
「でもなあ」
ベランダにしゃがみこんで木村冴子と話をする。ひそめぎみの声で。町は眠ってしまっている。高橋さんも眠ってしまっている。眠るのはいつも居間だ。佐々木くんは部屋がないから勿論だが、高橋さんも自分の部屋では寝ずになぜか居間で、佐々木くんと布団を並べて寝ている。正確には、こたつを真ん中にして、こたつと家具と佐々木くんの荷物が占めていないせまい空間になんとか敷布団を敷いて寝ている。
自分の部屋で寝ない気持ちは、佐々木くんには分からないでもない気がしたが、そんなことを言うとまた、ばかものッ、が飛びそうな気がしたので高橋さんには言わない。
カレーの匂いの中で(結局夕食はカレーだった。佐々木くんが作れるもので確実においしいものが思いつかなかったので、レトルトパックを温めたのだ。カップラーメンと変わらんじゃないかと高橋さんは気難しく呟いたが、おいしいのは確かだなとも言った)高橋さんのいびきを聞くともなく聞きながら幸福なまどろみの中をふわふわと漂っていると、いきなり携帯電話が唸った。マナーモードにしていてもなおたいへんうるさいものである。佐々木くんはあわてて携帯電話を、枕もとのジーパンごと掴んであたふたとベランダに飛び出した。ジーパンはきちんとたたんで枕もとに置いてある。一本だけをここのところずっと履きまわしていて、いいかげんボロなのだからそんなに丁寧に扱わなくても脱いだら脱いだ形のまま脱ぎ捨てておけばいいと思うのだが、高橋さんが怒るので畳んであったのだ。とても疲れたような気分になったのは急いだせいであって高橋さんは関係なく、ああビビった、と呟きながら、携帯電話を、破れかけのポケットからひっぱりだした。表示を確認する。ためいき。通話ボタン。
「仕方ないよ」
ベランダにしゃがみこんで、少しだけ残って光っている町のあかりを見る。それから、ずっと遠くに明るい都市のあかりも見る。小さく光る遠いもの。
「仕方なくないわよ」
きみっの名前は将軍♪
ぼくっの名前は三等兵♪
坂の下のスーパーに寄ってから、坂の上まで歩く。佐々木くんは坂の上のちっぽけなアパートに高橋さんと住んでいる。
軍服を着た高橋さんはこたつにもぐりこんでみかんをむいていた高橋さんはもうほとんど頭がまっしろになった六十前の男性である。六十前なのに頭がまっしろなのはすこし早いと言えるだろう。しかし若白髪(六十前の白髪は若白髪と呼んでいいのかよくないのか微妙なところだが)の人はハゲないというので、いいっすねと佐々木くんは思う。佐々木くんの生え際はすでにあやういのである。まだ二十代だというのに。
高橋さんは頭の毛もまっしろだが、頭の中身もかなり白い人である。
「おそかったね佐々木くん。今日の戦況を報告したまえ」
「六時は別に遅くないと思うんですけどねお義父さん」
「今日は何か戦果があったのかね」
「ダメでした」
「駄目か」
「はい」
「ばかものッ」
小さい声でしかしするどく高橋さんは言った。そrから、こたつの脇に常備してある電気ポットを引き寄せて、これまたこたつの上に出しっぱなしの急須にお湯をそそいだ。そのあと、高橋さんは立ちあがって流しに行って湯呑をひとつ洗って拭いて持ってきた。高橋さんはそれを、こたつの上に置いたままの自分の湯呑と並べた。そしてまたこたつにもぐりこんだ。もぐりこんでいるところで、佐々木くんに気がついて、見上げてきた。
「何をぼおっと立っとるんだ佐々木くん。入りたまえ」
「はあ。入る許可をいただけますか」
「うむ。許可する」
それで佐々木くんはようやくこたつにもぐりこんだ。もぐりこみながらコートを脱いで、まるめて脇に置いていると、また、ばかものッ、と言われた。
「そんなところに置くんじゃない。きちんとハンガーにかけなさい」
「はあ」
「返事はきちんと」
「はい」
佐々木くんはもそもそとこたつから這い出して、玄関まで戻ってそこのコート掛けにコートをかけた。
高橋さんの、ばかものッ、はとてもするどい。
何しろカタカナの「小さいツ」である。ひらがなの「小さいつ」ではない。鋭さが違う。違うよなあ、と、コーヒーの香りを批評するように首をひねりながら、思う。
佐々木くんが戻ってきて再びこたつにもぐりこむと、高橋さんは出がらしのお茶をすすめてくれた。みかんもすすめてくれる。お礼を言って(あ、すんません、ありがとございます)みかんをむく。
「そんなことだからいつまでも三等兵なんだぞ佐々木くん」
「はあ。すんません」
まじめに言われて、まじめに返した。
みかんをむきながら高橋さんを見た。軍服を着た高橋さんをじっと見ていると、3Dの絵が見えてくるみたいにじわりと、高橋さんの本当の服が見える。青いチェックのシャツ。高橋さんは綺麗好きだ。折り目正しいぴんとしたシャツ。
高橋さんの頭のなかみがかなり白くなっているのはたしかだろうが、どれくらい白くなっているのか佐々木くんにはよくわからない。会ったばかりの頃からそうなのだ、それはまあ、会ったのはごく最近だが。ミワ子も、私が小さい頃からそうなのよお父さんって、と言っていたから、昔からそうだったらしい。君の名前は将軍、僕の名前は三等兵。
「でもお義父さん、俺とお義父さんのふたりしかいないんだから俺の階級、階級っていうんですか、そういうのもっと高くてもいいんじゃないですか。よくわかんないけど」
「駄目だ」
「大佐とかいろいろあるんでしょ」
「大佐はミワ子だ。君なんか三か月前に入ったばかりじゃないか」
「よくわかんないんですけどね、俺はお義父さんの養子になったわけじゃないのに何に入ったことになってんでしょうね、たぶんミワ子は俺の籍に入ったことになってたんだと思うし」
「腹が減ったな」
「そですね」
「朝からみかんしか食っとらんのだ」
「そりゃあ大変だ」
佐々木くんは出がらしのお茶を飲み干す。
「何食いたいですか。新製品のカップ麺は買ってきましたけど」
「何でもかまわないがカップラーメン以外のものも作れるかね」
「はあ、自信ないですけどがんばってみます。何がいいですか」
「うむ」
高橋さんはみかんのふさのすじを慎重にむいている。
「おいしいものだ」
「おいしいものかあ……」
料理人の腕が悪いからなあ、と佐々木くんは呟いて、それからミワ子の部屋にエプロンを(しないと怒られそうなので)探しに行った。目の端で高橋さんを見る。高橋さんをうっすらと覆う紺色の軍服。頭が白くなってるのは俺の方だったりして、と思ってみる。
「まだそこに住んでるの?」
木村冴子は純粋に驚いた声でそう言った。彼女はミワ子のともだちだ。ちいさな印刷会社で働いている。独身である。まだそこに住んでるの。
「そうだよ」
「別にそこに住まなくたっていいのよ佐々木くん」
「いやあ」
「実の親じゃないんだし」
「そうだけどさ」
「家賃払ってるの佐々木くんでしょ」
「まあ、それもあるし」
「だから言ってるんだけど」
「でもなあ」
ベランダにしゃがみこんで木村冴子と話をする。ひそめぎみの声で。町は眠ってしまっている。高橋さんも眠ってしまっている。眠るのはいつも居間だ。佐々木くんは部屋がないから勿論だが、高橋さんも自分の部屋では寝ずになぜか居間で、佐々木くんと布団を並べて寝ている。正確には、こたつを真ん中にして、こたつと家具と佐々木くんの荷物が占めていないせまい空間になんとか敷布団を敷いて寝ている。
自分の部屋で寝ない気持ちは、佐々木くんには分からないでもない気がしたが、そんなことを言うとまた、ばかものッ、が飛びそうな気がしたので高橋さんには言わない。
カレーの匂いの中で(結局夕食はカレーだった。佐々木くんが作れるもので確実においしいものが思いつかなかったので、レトルトパックを温めたのだ。カップラーメンと変わらんじゃないかと高橋さんは気難しく呟いたが、おいしいのは確かだなとも言った)高橋さんのいびきを聞くともなく聞きながら幸福なまどろみの中をふわふわと漂っていると、いきなり携帯電話が唸った。マナーモードにしていてもなおたいへんうるさいものである。佐々木くんはあわてて携帯電話を、枕もとのジーパンごと掴んであたふたとベランダに飛び出した。ジーパンはきちんとたたんで枕もとに置いてある。一本だけをここのところずっと履きまわしていて、いいかげんボロなのだからそんなに丁寧に扱わなくても脱いだら脱いだ形のまま脱ぎ捨てておけばいいと思うのだが、高橋さんが怒るので畳んであったのだ。とても疲れたような気分になったのは急いだせいであって高橋さんは関係なく、ああビビった、と呟きながら、携帯電話を、破れかけのポケットからひっぱりだした。表示を確認する。ためいき。通話ボタン。
「仕方ないよ」
ベランダにしゃがみこんで、少しだけ残って光っている町のあかりを見る。それから、ずっと遠くに明るい都市のあかりも見る。小さく光る遠いもの。
「仕方なくないわよ」