夏の日
じいんじいんと蝉が鳴いていた。アスファルトの地面を踏みつける足が重たかった。じいんじいん。頭がくらくらした。自転車のタイヤがからからと回る。ずいと目を上げて坂をみると坂の上に太陽が光っていて目に刺さった。くらくらした。頭が重たく、足が重たく、自転車が重たく、重たく、重たく。
じいんじいんと蝉が鳴いている。からからと自転車のタイヤが回る。
坂の道の両側どちら側にも、おおきな家が建っている。古ぼけた形に整えた、実際はそう古くもないらしい青銅色のポストの横を通った。白い壁と灰色の壁と茶色の壁と。白いカーテンとピンクのカーテンと赤いカーテンと。
じいんじいんと蝉が鳴いている。
額から汗の滴が落ちて目に染みて、視界がぼやけた。自転車から右の指を離して目を擦った。手の甲で汗を拭う。額と鼻の頭と首筋と。あついあついあついあついあついあつい暑い。
汗を拭くあいだ足が止まっていた。手のひらにさえ溜まった汗をシャツの袖でふいて、ハンドルを握りなおした。足を踏み出す。熱線にあたためられたアスファルトは柔らかくなっていて、踏んだ足はかすかに沈み、持ち上げるとじっとりと張り付いた感覚。
じいんじいん。
「やあ、イリヤ」
聞き覚えのない声。
入夜。名前を呼ばれた。そんな奇妙な名前は珍しいから、それは確実に呼ばれたのだと分かる名前。踏みだした足をまた止めて、目を上げる、けれど目の前には人影はなく、坂の上、行く先にずっと目を上げても誰もいない。右を見たら錆の浮いた門が見えた、しっかりと閉ざされている。後ろを見たらずっと上がってきた坂が見えた。ずっと下に坂の終わりが見えて、横切る車が見えた。大通り。青い自動車が通るのが見えた。でも音は聞こえない。ここまで届かない。音もなくぱっと現われて消えたように見えた。
「やあ、イリヤ」
もう一度名前を呼ばれた。左側を見ると家のコンクリートの壁の上に緑の葉が伸びていた。細い枝がアスファルトに影を落としている。そういえば陰が少ない、右にも左にも。太陽がまっすぐに光を降らせて影をできるだけ減らしている。この道を光で満たしている。
人はいない。誰も。
じいんじいんと蝉が鳴いている。
伸びた細い枝をじっと見ていた。その枝が不意にがさがさと激しく揺れて、そのあとぴたりと静止した。意思を持つもののような動き方だった。
三十秒ほどじっとそこに止まって枝を眺めた。
びっくりした。
人が後ろから動かしたようには見えなかった。なにを見たのかよくわからなかった。腕を振り回すような、枝としては、奇妙な動きだった。
見なかったことにした。
じいんじいんじいんと蝉が鳴いている。見なかったことにして、、足を進めた。アスファルトの地面をじっと見つめた。黒く粘ついて光る地面。耳をよく澄ますと、蝉の声と自転車のタイヤが回る音と、もうひとつ、じっ、じりっ、と小さな音がする。アスファルトに張りついた足を引きはがす音だ。
「これこれ」
また声がしたけれど、さっきのような奇妙なことは見たくなかったし何より急ぎの用を思い出して足を止めなかった。少し怖かった。
「これこれお待ち、イリヤ」
どうして名を呼ぶのだろう。どうして名を知られているのだろう。いや。知っている人なのかもしれない。声の記憶はそんなに当てになるのだろうか。声はどこからしただろう。最初に声をかけられてからもうずいぶん動いた。ずっと地面を見つめ続けているが人影は見えない。きっと後ろから聞こえたのだろう。振り返ろう。振り返って誰か確かめよう。だけどもうずいぶん動いた。見えないかもしれない。もういないかもしれない。
「どこまで行くんだい」
もういないかもしれない、そう思ったとき声がした。耳のすぐ横だった。その声を聞いたときまた別のことに思い至った。そうだ足音がしない。さっきから声が聞こえていないときは蝉とタイヤと自分の足音だけが聞こえている。じいん、からから、じりっ。
目を動かして、声が聞こえた右耳の側の地面を見た。明るい光に満ちていた。
影はなかった。
足を止めそうになったとき、声がした。
「乗せて行っておくれ」
ずしり、と、その瞬間、荷台に重しがかかった。ずしり。自分の目が大きく開くのがわかった。背筋が伸びた。腰に力を込めた。腕が引っぱられる。ぐぐぐ、っと指に力を込める。ぐいぐいと後ろに引っ張られているようだった。息を詰めて、足を踏ん張り、自転車を前に押し出した。
降りてくださいよ! そう言う、自分の声が聞こえた。首を回して振り返ろうとするが、回らない。
「けちくさいことをお言いでないよ」
重いんですけど! それはその通りだと自分の言った声に自分で納得する。声は機嫌をそこねたようだった。
「仮にも女性に向って失礼な子だね」
どうやら女性であるらしかった。ぐぐぐと指に力を入れてなんとか前に進もうとするが足が動かせない。足を動かすと後ろに転がり落ちてしまいそうだ。のぼってきた坂道を、ごろごろと転がり落ちる、その前にこの声は、離れてはくれないだろうか、一緒に転がり落ちるつもりだろうか。
「やれやれ」
声はためいきをついた。
「だらしないね」
声が聞こえて、ふっと、軽くなった。込めていた力が抜けて今度は前に転びそうになった。うわうわと腰に力を込めなおす。自転車が、がしゃしゃんと音を立てた。ぐい、と押し出される。すごい力で。
首のうしろを、ごうと風が通り抜けた。ごうっ。生ぬるく、暑さをなんとかする足しにはならない。背中を押すような風と、背中を押す強い力。足が勝手に動く。うわうわうわ、と呟きが漏れる。足がずんずんと動いて坂道を二十歩三十歩とずんずんと登った。
「そうそう、その調子」
しわがれた声がする。足を動かしているつもりはないのに。楽は楽だったが、怖かった。ずんずんずんずんと足は進む。ずんずんずんずんと自転車のタイヤが回る。
風が首のうしろをごうと通り抜けた。
おお、と声が言った。
「ここでいいよ」
そのとたん足が止まった。自分の意志で動いていたものではなかったものだからどうしようもなく転んだ。自転車も一緒に転んだ。でん、がらがっしゃん。風はぴたりと止んでいた。
手をついたアスファルトが熱いのに気がついて慌てて手を上げた。手に、アスファルトの石の形のでこぼこの跡がついていた。
右側も左側も、やけにぽっかりしていた。
右を見ると、草が見えた。空き地だった。空き地の向こうに、灰色のコンクリートの壁が見えた。
左を見ると、家があった。門は壊れてきいきいと音を立てて揺れている。所かまわず草が生えている。カーテンがかかっていない窓。割れた壁。どうやら空き家だ。ぽっかりした空気。
力を余らせて、からからと自転車のタイヤが回っている。
「これはお駄賃だよ」
声、頭上から聞こえた。目を上げても、相変わらず誰もいない。人影はない。後ろを振り返る。横切る大通り、今度は赤い車が現われて消える。小さく小さくぼんやりと。
座りこんだ膝の上に、ぽとりと何かが落ちてきた。ぎょっとしてあとずさった。落ちてきた何かは膝の上から落ちてアスファルトの黒にしみのように乗った。ピンクの包み紙。何かのお菓子のように見えた。
じいんじいんと蝉が鳴いている。からからと自転車のタイヤが回る。
坂の道の両側どちら側にも、おおきな家が建っている。古ぼけた形に整えた、実際はそう古くもないらしい青銅色のポストの横を通った。白い壁と灰色の壁と茶色の壁と。白いカーテンとピンクのカーテンと赤いカーテンと。
じいんじいんと蝉が鳴いている。
額から汗の滴が落ちて目に染みて、視界がぼやけた。自転車から右の指を離して目を擦った。手の甲で汗を拭う。額と鼻の頭と首筋と。あついあついあついあついあついあつい暑い。
汗を拭くあいだ足が止まっていた。手のひらにさえ溜まった汗をシャツの袖でふいて、ハンドルを握りなおした。足を踏み出す。熱線にあたためられたアスファルトは柔らかくなっていて、踏んだ足はかすかに沈み、持ち上げるとじっとりと張り付いた感覚。
じいんじいん。
「やあ、イリヤ」
聞き覚えのない声。
入夜。名前を呼ばれた。そんな奇妙な名前は珍しいから、それは確実に呼ばれたのだと分かる名前。踏みだした足をまた止めて、目を上げる、けれど目の前には人影はなく、坂の上、行く先にずっと目を上げても誰もいない。右を見たら錆の浮いた門が見えた、しっかりと閉ざされている。後ろを見たらずっと上がってきた坂が見えた。ずっと下に坂の終わりが見えて、横切る車が見えた。大通り。青い自動車が通るのが見えた。でも音は聞こえない。ここまで届かない。音もなくぱっと現われて消えたように見えた。
「やあ、イリヤ」
もう一度名前を呼ばれた。左側を見ると家のコンクリートの壁の上に緑の葉が伸びていた。細い枝がアスファルトに影を落としている。そういえば陰が少ない、右にも左にも。太陽がまっすぐに光を降らせて影をできるだけ減らしている。この道を光で満たしている。
人はいない。誰も。
じいんじいんと蝉が鳴いている。
伸びた細い枝をじっと見ていた。その枝が不意にがさがさと激しく揺れて、そのあとぴたりと静止した。意思を持つもののような動き方だった。
三十秒ほどじっとそこに止まって枝を眺めた。
びっくりした。
人が後ろから動かしたようには見えなかった。なにを見たのかよくわからなかった。腕を振り回すような、枝としては、奇妙な動きだった。
見なかったことにした。
じいんじいんじいんと蝉が鳴いている。見なかったことにして、、足を進めた。アスファルトの地面をじっと見つめた。黒く粘ついて光る地面。耳をよく澄ますと、蝉の声と自転車のタイヤが回る音と、もうひとつ、じっ、じりっ、と小さな音がする。アスファルトに張りついた足を引きはがす音だ。
「これこれ」
また声がしたけれど、さっきのような奇妙なことは見たくなかったし何より急ぎの用を思い出して足を止めなかった。少し怖かった。
「これこれお待ち、イリヤ」
どうして名を呼ぶのだろう。どうして名を知られているのだろう。いや。知っている人なのかもしれない。声の記憶はそんなに当てになるのだろうか。声はどこからしただろう。最初に声をかけられてからもうずいぶん動いた。ずっと地面を見つめ続けているが人影は見えない。きっと後ろから聞こえたのだろう。振り返ろう。振り返って誰か確かめよう。だけどもうずいぶん動いた。見えないかもしれない。もういないかもしれない。
「どこまで行くんだい」
もういないかもしれない、そう思ったとき声がした。耳のすぐ横だった。その声を聞いたときまた別のことに思い至った。そうだ足音がしない。さっきから声が聞こえていないときは蝉とタイヤと自分の足音だけが聞こえている。じいん、からから、じりっ。
目を動かして、声が聞こえた右耳の側の地面を見た。明るい光に満ちていた。
影はなかった。
足を止めそうになったとき、声がした。
「乗せて行っておくれ」
ずしり、と、その瞬間、荷台に重しがかかった。ずしり。自分の目が大きく開くのがわかった。背筋が伸びた。腰に力を込めた。腕が引っぱられる。ぐぐぐ、っと指に力を込める。ぐいぐいと後ろに引っ張られているようだった。息を詰めて、足を踏ん張り、自転車を前に押し出した。
降りてくださいよ! そう言う、自分の声が聞こえた。首を回して振り返ろうとするが、回らない。
「けちくさいことをお言いでないよ」
重いんですけど! それはその通りだと自分の言った声に自分で納得する。声は機嫌をそこねたようだった。
「仮にも女性に向って失礼な子だね」
どうやら女性であるらしかった。ぐぐぐと指に力を入れてなんとか前に進もうとするが足が動かせない。足を動かすと後ろに転がり落ちてしまいそうだ。のぼってきた坂道を、ごろごろと転がり落ちる、その前にこの声は、離れてはくれないだろうか、一緒に転がり落ちるつもりだろうか。
「やれやれ」
声はためいきをついた。
「だらしないね」
声が聞こえて、ふっと、軽くなった。込めていた力が抜けて今度は前に転びそうになった。うわうわと腰に力を込めなおす。自転車が、がしゃしゃんと音を立てた。ぐい、と押し出される。すごい力で。
首のうしろを、ごうと風が通り抜けた。ごうっ。生ぬるく、暑さをなんとかする足しにはならない。背中を押すような風と、背中を押す強い力。足が勝手に動く。うわうわうわ、と呟きが漏れる。足がずんずんと動いて坂道を二十歩三十歩とずんずんと登った。
「そうそう、その調子」
しわがれた声がする。足を動かしているつもりはないのに。楽は楽だったが、怖かった。ずんずんずんずんと足は進む。ずんずんずんずんと自転車のタイヤが回る。
風が首のうしろをごうと通り抜けた。
おお、と声が言った。
「ここでいいよ」
そのとたん足が止まった。自分の意志で動いていたものではなかったものだからどうしようもなく転んだ。自転車も一緒に転んだ。でん、がらがっしゃん。風はぴたりと止んでいた。
手をついたアスファルトが熱いのに気がついて慌てて手を上げた。手に、アスファルトの石の形のでこぼこの跡がついていた。
右側も左側も、やけにぽっかりしていた。
右を見ると、草が見えた。空き地だった。空き地の向こうに、灰色のコンクリートの壁が見えた。
左を見ると、家があった。門は壊れてきいきいと音を立てて揺れている。所かまわず草が生えている。カーテンがかかっていない窓。割れた壁。どうやら空き家だ。ぽっかりした空気。
力を余らせて、からからと自転車のタイヤが回っている。
「これはお駄賃だよ」
声、頭上から聞こえた。目を上げても、相変わらず誰もいない。人影はない。後ろを振り返る。横切る大通り、今度は赤い車が現われて消える。小さく小さくぼんやりと。
座りこんだ膝の上に、ぽとりと何かが落ちてきた。ぎょっとしてあとずさった。落ちてきた何かは膝の上から落ちてアスファルトの黒にしみのように乗った。ピンクの包み紙。何かのお菓子のように見えた。