紅い瞳と女の子
紅い瞳と女の子
僕の目がそれはそれは赤く染まったときの話なのだけれど……あァ、すまないね、僕の名前は――っていうんだ。小学校くらいだったろうか、算数の授業中にね、突然目に見える世界の右半分が、ビリジアンの絵の具でも混ぜ込んだかのように、綺麗な緑で染まったんだ。疑問に思っちゃあいけないよ。僕の視界は真夏に見る瑞々しい葉っぱで一杯だったけれど、そのときの僕の目は紛う方なき深紅に染まっていたと言うんだ。疑っちゃあいけない。君も今、そうだろう? うん、同じ状況というヤツだ。
最初に気づいたのは僕らの担任の桂木先生だった。前の時間では黒かった瞳が血を集めたようになったのを見て取ったときの先生の驚きといえば、飛び上がった勢い余って彼の寂しい頭を温めていたカツラがすっぽ抜けるほどのことだった。すぐさま保健室から病院へ流れるように運ばれて、最新技術によって赤い瞳の謎を解明しようとしたけれど、結局、原因はわからずじまいだった。とくに摩訶不思議なのは、両目じゃなく、右目だけが赤く染まっていたということだ。それで僕の視界は緑色ってんだから、見づらいったらありゃあしない。当然、次の日から僕の目を見ようと誰も彼もが押し寄せた。とにかく綺麗な赤らしいんだ。自分で見てもね、視界が緑色だからいつもとかわらない黒に見える。だから、僕は自分の瞳が赤いのを確認することはできなかった。え? 写真? それってもう20年くらいして色がつくもんだろ? まだ、ないさ。
そういうわけで、それからひととき、僕はちょっとした有名人になったわけだ。
だけどね、君。僕には誰にも言ってない秘密があったのさ。僕の目はただ赤くなっただけじゃあ、なかったんだ。その日から、視界のほんの片隅、右の端っこに、僕に向かって笑いかけるとてもハイカラな女の子の姿が見えたんだ。その子は緑色の視界のせいでわかりづらいのだけど、たぶん、白いブラウスにちょっとませた感じの短めのスカートを着ていた。髪が長いもんだから、目にかかったり肩のあたりでばらついてるのをしきりに手でなでつけていた。その時の大きな目といったら、そりゃあもうキラキラと輝いていて、星がちりばめられていると言っても過言じゃあなかった。その目で僕を見つめているんだ。まっすぐ、他の全てを無視して、僕だけを。
彼女が僕の視界から消えたことはなかった。いつだっているんだ。授業を受けているときは、桂木先生の横に突っ立って僕を見ている。体育前の着替えの時も、他の男子の気づかない中で、まじまじと僕に釘付けになっている。心なしか、ほおが赤くなってたりしたかもしれないが、確認することは最後までできなかった。。なんせ彼女は、僕の真っ当な視界の中には入ってこないから……つまり全部に緑色の補正がかかってるから、色についてはよくわからないのさ。トイレに入ってるときなんかは見えないんだけど、ドアをあけたら、ずっと立っていたかのようにいるんだ。そういうとき、彼女はとても安心しきったように笑顔を見せる。とてもかわいいのだけど、僕はあまり好きじゃない。彼女の笑みの中心から、なにかとんでもない怪物が飛び出してきそうだったから。いつもみたいに、無表情で、僕を見つめるときには感じない何か。それは不思議な光景だったよ。普通、人に笑いかけられると、楽しくなるものだろ?
彼女はしゃべらなかったし、物にふれることもできないようだった。それどころか、僕以外の存在を認識できていないようだった。誰かとぶつかったかと思えば、次の瞬間には幽霊みたいにすり抜けている。しかも彼女は、それに気づいていない感じなんだ。最初に見えたときなんか、挨拶したところを悪友たちに見られて、さんざからかわれた物だ。僕は彼女の存在を伝えようとしたけれど、誰も聞いちゃくれなかった。そりゃそうだろう。一番大事な彼女自身、僕の呼びかけにはなんにも答えてはくれなかった。僕らは見つめ合っていたけれど、交流することはなかった。彼女が僕にむかってなにを伝えたいのか、そもそも何かを伝えたがっているのか、それすらもわからなかった。僕が彼女について知りたがっていると言うことも、どうやら伝わっていないようだった。一つの例外をのぞいて、僕らはただ見つめ合っているだけだった。その例外ってのは病院にいるときだ。
僕は定期的に診察を受けるため、眼科まで行った。なにせやっかいな病気? なもんで、都会にある大学病院とかいうところまで、二時間はかけておんぼろの自動車で通わなければならなかった。
彼女はもちろん、僕の視界の隅にいて、僕を見ていた。車の外にいるのだけれど、車と同じ早さで進んでいた。もちろん、対向車にぶつかったりはしなかった。すり抜けるのだ。僕の主治医はこの病院でも偉い部類に入るようで、鬼のようないかつい顔に、ヤマアラシをぶら下げたようなツンツンとんがったヒゲを蓄えている。そこから車の排気音みたいなぶっとい声が飛び出るのだから、誰に言ったって医者だとは信じてもらえないだろう。だって、僕も最初、どこの怪物かと思ったもの。
病院に来ると、女の子はとたんにソワソワし始める。いつもだ。落ち着かなさげに髪を指にくるくる巻いては、今にも泣き出しそうな悲しい顔で僕に何かを訴えかけようとする。最初の診察で主治医の人に変な顔をされてから、彼女のことは一度も口に出していない。その日も特になにも見つからなかったので、父は何が何だかといった様子で、先生に抗議している。診察が終わった後に見てみれば、女の子はすでにいつものように、髪をなでつけながら僕を見て立っていた。僕が医者に診られているそのときだけ、彼女はやけに能動的だった。
ところで、目がおかしくなってちょっと経った夏の午後、ただボンヤリと縁側で西瓜をかじっていたら、少しの変化が起こったんだよ。
女の子が緑色の世界の中で、小気味良いリズムで鞠付きを始めたんだ。色はやっぱりわかりにくいけれど、ほとんど黒かったからその鞠が濃い色であることは疑うべくもなかった。鞠付きは、それはアクロバティックで、女の子は鞠を自由自在に、自分の手足であるかのように操りながら、自身は羽のついてるかのように、小さな背丈の木ほども飛び上がったりした。あまりに突然のことで、鞠がどこから出たかもわからない僕はただただびっくりして、いつの間にか手から落ちている西瓜にも気づかずに見ているしかなかった。なにもしなかった彼女が初めて能動的に、僕にむかって芸をしたんだ。劇的だね。
ぴょんぴょん飛び跳ねていた彼女はそれから三十分ほど経って、ようやく動きを止めた。いつのまにか鞠は消えていた。僕が思わず拍手をしていると、彼女はほほえんで見せた。
僕はそれからしばらく、彼女と目を合わせなかった。
彼女の笑顔は嫌いだったんだ、そういえば。思い出しても、恐ろしい顔だったよ。
そしてまたしばらくして、ようやっと女の子のことを意識し始めたそのときは、もう夏休みが終わっていた。目は全くこれっぽっちもなにも変わりもなく、真っ赤のまんまだった。女の子はそのときもやっぱり、前髪をくるくるいじりながら立っていた。学校でも、車でも、病院でも、ずっと、ずっとそうだ。
僕の目がそれはそれは赤く染まったときの話なのだけれど……あァ、すまないね、僕の名前は――っていうんだ。小学校くらいだったろうか、算数の授業中にね、突然目に見える世界の右半分が、ビリジアンの絵の具でも混ぜ込んだかのように、綺麗な緑で染まったんだ。疑問に思っちゃあいけないよ。僕の視界は真夏に見る瑞々しい葉っぱで一杯だったけれど、そのときの僕の目は紛う方なき深紅に染まっていたと言うんだ。疑っちゃあいけない。君も今、そうだろう? うん、同じ状況というヤツだ。
最初に気づいたのは僕らの担任の桂木先生だった。前の時間では黒かった瞳が血を集めたようになったのを見て取ったときの先生の驚きといえば、飛び上がった勢い余って彼の寂しい頭を温めていたカツラがすっぽ抜けるほどのことだった。すぐさま保健室から病院へ流れるように運ばれて、最新技術によって赤い瞳の謎を解明しようとしたけれど、結局、原因はわからずじまいだった。とくに摩訶不思議なのは、両目じゃなく、右目だけが赤く染まっていたということだ。それで僕の視界は緑色ってんだから、見づらいったらありゃあしない。当然、次の日から僕の目を見ようと誰も彼もが押し寄せた。とにかく綺麗な赤らしいんだ。自分で見てもね、視界が緑色だからいつもとかわらない黒に見える。だから、僕は自分の瞳が赤いのを確認することはできなかった。え? 写真? それってもう20年くらいして色がつくもんだろ? まだ、ないさ。
そういうわけで、それからひととき、僕はちょっとした有名人になったわけだ。
だけどね、君。僕には誰にも言ってない秘密があったのさ。僕の目はただ赤くなっただけじゃあ、なかったんだ。その日から、視界のほんの片隅、右の端っこに、僕に向かって笑いかけるとてもハイカラな女の子の姿が見えたんだ。その子は緑色の視界のせいでわかりづらいのだけど、たぶん、白いブラウスにちょっとませた感じの短めのスカートを着ていた。髪が長いもんだから、目にかかったり肩のあたりでばらついてるのをしきりに手でなでつけていた。その時の大きな目といったら、そりゃあもうキラキラと輝いていて、星がちりばめられていると言っても過言じゃあなかった。その目で僕を見つめているんだ。まっすぐ、他の全てを無視して、僕だけを。
彼女が僕の視界から消えたことはなかった。いつだっているんだ。授業を受けているときは、桂木先生の横に突っ立って僕を見ている。体育前の着替えの時も、他の男子の気づかない中で、まじまじと僕に釘付けになっている。心なしか、ほおが赤くなってたりしたかもしれないが、確認することは最後までできなかった。。なんせ彼女は、僕の真っ当な視界の中には入ってこないから……つまり全部に緑色の補正がかかってるから、色についてはよくわからないのさ。トイレに入ってるときなんかは見えないんだけど、ドアをあけたら、ずっと立っていたかのようにいるんだ。そういうとき、彼女はとても安心しきったように笑顔を見せる。とてもかわいいのだけど、僕はあまり好きじゃない。彼女の笑みの中心から、なにかとんでもない怪物が飛び出してきそうだったから。いつもみたいに、無表情で、僕を見つめるときには感じない何か。それは不思議な光景だったよ。普通、人に笑いかけられると、楽しくなるものだろ?
彼女はしゃべらなかったし、物にふれることもできないようだった。それどころか、僕以外の存在を認識できていないようだった。誰かとぶつかったかと思えば、次の瞬間には幽霊みたいにすり抜けている。しかも彼女は、それに気づいていない感じなんだ。最初に見えたときなんか、挨拶したところを悪友たちに見られて、さんざからかわれた物だ。僕は彼女の存在を伝えようとしたけれど、誰も聞いちゃくれなかった。そりゃそうだろう。一番大事な彼女自身、僕の呼びかけにはなんにも答えてはくれなかった。僕らは見つめ合っていたけれど、交流することはなかった。彼女が僕にむかってなにを伝えたいのか、そもそも何かを伝えたがっているのか、それすらもわからなかった。僕が彼女について知りたがっていると言うことも、どうやら伝わっていないようだった。一つの例外をのぞいて、僕らはただ見つめ合っているだけだった。その例外ってのは病院にいるときだ。
僕は定期的に診察を受けるため、眼科まで行った。なにせやっかいな病気? なもんで、都会にある大学病院とかいうところまで、二時間はかけておんぼろの自動車で通わなければならなかった。
彼女はもちろん、僕の視界の隅にいて、僕を見ていた。車の外にいるのだけれど、車と同じ早さで進んでいた。もちろん、対向車にぶつかったりはしなかった。すり抜けるのだ。僕の主治医はこの病院でも偉い部類に入るようで、鬼のようないかつい顔に、ヤマアラシをぶら下げたようなツンツンとんがったヒゲを蓄えている。そこから車の排気音みたいなぶっとい声が飛び出るのだから、誰に言ったって医者だとは信じてもらえないだろう。だって、僕も最初、どこの怪物かと思ったもの。
病院に来ると、女の子はとたんにソワソワし始める。いつもだ。落ち着かなさげに髪を指にくるくる巻いては、今にも泣き出しそうな悲しい顔で僕に何かを訴えかけようとする。最初の診察で主治医の人に変な顔をされてから、彼女のことは一度も口に出していない。その日も特になにも見つからなかったので、父は何が何だかといった様子で、先生に抗議している。診察が終わった後に見てみれば、女の子はすでにいつものように、髪をなでつけながら僕を見て立っていた。僕が医者に診られているそのときだけ、彼女はやけに能動的だった。
ところで、目がおかしくなってちょっと経った夏の午後、ただボンヤリと縁側で西瓜をかじっていたら、少しの変化が起こったんだよ。
女の子が緑色の世界の中で、小気味良いリズムで鞠付きを始めたんだ。色はやっぱりわかりにくいけれど、ほとんど黒かったからその鞠が濃い色であることは疑うべくもなかった。鞠付きは、それはアクロバティックで、女の子は鞠を自由自在に、自分の手足であるかのように操りながら、自身は羽のついてるかのように、小さな背丈の木ほども飛び上がったりした。あまりに突然のことで、鞠がどこから出たかもわからない僕はただただびっくりして、いつの間にか手から落ちている西瓜にも気づかずに見ているしかなかった。なにもしなかった彼女が初めて能動的に、僕にむかって芸をしたんだ。劇的だね。
ぴょんぴょん飛び跳ねていた彼女はそれから三十分ほど経って、ようやく動きを止めた。いつのまにか鞠は消えていた。僕が思わず拍手をしていると、彼女はほほえんで見せた。
僕はそれからしばらく、彼女と目を合わせなかった。
彼女の笑顔は嫌いだったんだ、そういえば。思い出しても、恐ろしい顔だったよ。
そしてまたしばらくして、ようやっと女の子のことを意識し始めたそのときは、もう夏休みが終わっていた。目は全くこれっぽっちもなにも変わりもなく、真っ赤のまんまだった。女の子はそのときもやっぱり、前髪をくるくるいじりながら立っていた。学校でも、車でも、病院でも、ずっと、ずっとそうだ。