砂と波
「受験とか色々あるじゃん。担任と面談とか、もうめんどくさくて。東京の大学に行きたいとか、それくらいの漠然とした希望しかないから別に話すことないし。親とも仲は全然悪くないけど、俺の進学のことで気が立ってるっぽく感じるし。なんかめんどくさい。自分のペースで色々やれるから、今が春休みでよかった」
「こんな遠く来るのはめんどくないんだ」
「うん」
直樹は、極めて気まぐれである。面倒くさがりのくせに、時折わけもわからず岳人を引っ張って変な所へ繰り出したりする。学校では退屈そうな顔をしていることが多いのに、たまに気が乗ると、こうである。気が乗っているとき以外は、岳人はほぼ放置されていると言っていい。
しかしながら、岳人にはそれがありがたかった。もっとも、こんなことが毎日続いたら間違いなくうんざりするだろうが。
「めんどくないも何も、漕いだのは俺だけどさ」
「家からチャリ持ってくんのめんどくさいからとりあえず市内はお前の二ケツでいいや」
「お前ほんと何でもめんどくさくなりすぎ」
「もう一年高校にいてえなぁ。お前だけめんどくさくない」
いきなり何だよ、と言おうとしたが、岳人は飲み込んだ。
「ケツの骨が痛い」
直樹は顔をしかめて自分の尻を撫でた。
「知らねえよ」
急な話題の転換に岳人は何故か安心して、笑みを漏らした。
「知れよ」
他愛のない会話を交わし、防風林の陰に停めた自転車のほうへ歩いた。
日暮れの迫浜海岸では、たえず黙って動かずにいる浜に向かって、何秒かに一度海水が打ち寄せてはかえるのみだった。ずっとそればかり繰り返していた。寄せる海水の量と勢いとリズムは不規則である。肌寒くなってきたが、揺らぐような音が岳人には心地よく聞こえてきた。
「南荻迫駅でいいの?」
既に薄暗い防風林の脇を、来たときと同じように荷台に直樹を乗せ、岳人はペダルを踏みつけた。
「うん、よろしく。いや、やっぱりサドルを貸してくれたまえ」
「お前漕ぐの?」
「俺のケツの痛みを知れ」
岳人はブレーキを握った。直樹が殆ど身を投げ出すように自転車から飛び降りて車道に着地した。後から来た車にクラクションを鳴らされた。いかにも迷惑そうに、二人の横を減速して通り過ぎていった。
「波田原まで帰れんの? 電車あんの?」
「失礼な。今日はまだあと五本はあるわ。でも駅に着いても多分四十分くらいは待つな。タイミング悪い」
岳人は直樹の後ろに回り荷台に跨った。殆ど何も考えずに直樹の腰に掴まったが、すぐに荷台を掴めと咎められた。細い金属でできた荷台に慌てて掴まりなおして走り始めると、程なくして尻がとても痛くなった。遠くでは、さっきの車がテールランプを赤く光らせたまま、海から伝わってくる冷めた空気の中に沈んでいった。二人の行く手には、自転車の発する弱弱しい光の玉が数メートル先のアスファルトの上をせわしなく動き回っていた。
「迫浜って海水浴場なの?」
阿久津が訊く。
「そんなん知ってどうするんだよ。よく知らないけど一応そうらしい。俺だって迫浜なんか一回しか行ったことねえからよく知らんけど」
「俺も」
岳人は迫浜の話を思い出させる出来事が東京で起こるなんて予想していなかった。追憶の縁で直樹の説明に一言だけ付け加えた。
「てか俺、荻迫市民じゃなくて波田原町民なんだけど」
阿久津はまた波田原という言葉に反応した。あのあたりの町村では唯一平成の大合併を逃れている、とか言うので直樹はまた苦笑したようだった。
「そんなことより、履修申請がめんどくさすぎる。ふざけてんの?」
「これはめんどくさい」
岳人は久しぶりに直樹に同調した。
「岳人やっといて」
直樹は岳人に向かって申請用紙を差し出した。
「学籍番号教えて。井本直樹って書いて残りは白紙で出すよ」
すぐにその申請用紙は引っ込んだ。
「帰るのめんどくさい。岳人泊めて」
「阿久津んちの方が近いからそっち行け」
ムリムリ、散らかってると言わんばかりに阿久津が手首と首を振る。
「甲斐の部屋、ちゃんと布団二組あるだろ。うち一組しかないし」
「そうそう。あれ俺の布団。たけひとくん、泊めて」
直樹は、阿久津の履修用紙に載った講義番号の半分くらいを写しながら言った。あとは前もって自分で履修申請しようとして控えておいたらしい番号を書きながら残りの生ビールを流し込んでいた。
「お前のじゃねえよ。甲斐家の布団だよ。くん付けすんな」
「自分で敷くから。シーツの場所も知ってるから」
「知ってるなよ」
「あ、明日一限あるから起こしてね」
起こさねえよ、めんどくさい。
そうだ。
めんどくさいから、お前が寝てる間に半分くらい履修用紙写してやる。
酒に毒された頭でぼんやり考えてから、岳人は通りかかった店員を呼び止め伝票をもらった。