砂と波
砂と波
荻迫市。その名前の由来を、甲斐岳人(かいたけひと)は上京してから知った。
「オギサコって、昔は荻じゃなくて小木っていう表記だったらしいよ」
クラスメイトはそう言いながら、薄暗いチェーンの居酒屋のテーブルで、シラバスの裏表紙に二通りのオギを走り書きして見せた。二十年間生きてきて漸く合点がいった瞬間だった。
「じゃあ迫って、迫浜の迫なん?」
「そうそう」
自称”日本地理マニア”のクラスメイト・阿久津徹(あくつとおる)がこともなげに説明する。このクラスメイトの出身は、千キロ近く離れた場所のはずなのに。なんでも、彼の小学六年生の頃の社会の教科書で、荻迫市が例に取り上げられていたのだという。確かに、以前ほどではないが工業は盛んだったし、耳に懐かしい”促成栽培”も県内で行われていたので、社会科の教科書にはうってつけなのかもしれない。
「ナオ、知ってた?」
岳人は隣に座っていた友人に尋ねた。
「知らねー。なんでそんなこと知ってんだよお前、小木とか迫浜とか、地元でもそんなに知られてねーって。気持ちわりい」
「ウィキで調べたんだよ」
そう言って、荻迫の大体の人口と、平成の大合併以前の周辺自治体の構成まで付け加えたこのクラスメイトに、二人して苦笑するほかなかった。
産業が盛んであっても、観光資源の豊富さという面では甚だ脆弱であったため、全国的な知名度は大したことのない荻迫市に、岳人は生まれ育った。荻迫は、とくに何の変哲もない、高度成長期の面影を残すアーケードの下に老舗がシャッターを連ねる、おあつらえ向きの県北の地方都市だった。駅前にはそこだけが南国のような背の高い棕櫚の木が立ち、商店街の入口にある信号機の無機質な鳥の鳴き声が時折、角ばったデザインとフェンダーミラーからいまだ脱却できないタクシーのエンジン音にかき消されながら、異様に物寂しく日々を彩った。
岳人は、その中心部、駅に程近い小木町(おぎまち)に住んでいた。市内の商業の中心であることに間違いはなかったが、市内の教育機関へのアクセスが劣悪だった。中学校まではなだらかに続く丘陵を約二キロ、朝から登ることになる。そして進学校である荻迫高校へ進学すると、中学時代より一本渡る川が増え、距離は二倍になった。とても毎朝歩ける距離ではないので自転車は必須だった。もっとも、市内からの通学でなかったら、荻迫駅か南荻迫駅の月極駐輪場代をしぶしぶ払うか、本数の少ないバスを利用するか――しかもバス停からは結構歩く――という選択肢しか用意されていなかったので、ラッキーな方だったのかもしれないが。
岳人は入学後、井本直樹(いもとなおき)と飯干雄一朗(いいぼしゆういちろう)と仲良くなった。同じクラスで、席が近かったので、何かと話す機会も多く、いつの間にか三人で行動するようになっていた。高校一年の夏休みのキャンプでも同じグループになったのをきっかけに特に仲良くなり、放課後も市内のショッピングセンター付近をうろついたり一緒に本屋に行ったりしていた。
「え、雄一朗、彼女出来たの?」
それは高校二年が終わろうとするモラトリアムの春の青天の霹靂だった。いよいよ大学受験というものが真実味を帯びてくる頃の出来事である。
「三組の黒木だって。だから彼女と勉強しに行くっていって市立図書館行った」
「最近見ないと思ったら、そういうこと?」
三年生は既に卒業し、学校にはいない。今日は二人とも学校の図書館に、新学年早々の実力テストの勉強をしに来ていた。そんな生徒は少数派で、校内は閑散としていた。岳人は最近、雄一朗と接触する機会が少なくなっているように感じていた。帰りに駐輪場で自転車を出しているときに初めて、直樹の口からその真相を聞いた。
「なんだよ、全然知らなかった。どっちの黒木?」
「ごく最近。付き合い始めたのは三日前とかだったと思うけど。黒木って二人もいたっけ?」
「男も一人いるよ。黒木」
「あのバスケ部のか。岳人と同じ中学だっけ。じゃあ三人もいるのか、あのクラスに。女黒木はどっちかわかんないけど、髪が黒い」
「両方髪黒いよ。あのクラス吉田も三人いるし。もっと配分考えろって感じだよな」
「雄一朗はまあ、よく見ると結構かっこいいしな。趣味が若干オタクだけど。趣味そのものっつーよりは語ってる時がオタクくさい。ガンダムの話のとき、いきいきとしすぎだろ」
「ああ、そうか。そっちか」
「何が?」
それまで遠くを見ていた直樹の瞳が岳人に向く。
「黒木美加ね。そういやこの前、雄一朗にDVD借りたって言ってた。っていうか、黒木は波田原(はたばる)出身だぞ?」
「知らない知らない。多分西中だな。あんな遠いとこから来てんのか。ご苦労なこって」
波田原は、現在直樹が暮らしている町だ。荻迫の南側にあり、ここから電車通学している生徒も多い。
「そういやお前、駅前に住んでるとか言ってたよな。波田原の」
「そう。だから俺は波田原中。ハタチューとニシチューは全然関わりないからな。同じ町でも。ま、これからは多分雄一朗は彼女と一緒に勉強、とかそういうことになるんだろうな。ってか、彼女作ったからにはそんくらいしてやんないとダメだろ。でもそのうち幸せを報告しに来そうだな」
直樹は大きなあくびをする。
「よし、どっか行こう。うしろ乗せて」
「今から? どこ?」
「迫浜」
「なんで……すげえ遠いな」
「思いつき」
岳人は、丸二年つきあってもまだ、直樹の言動と行動のパターンが読めていなかった。もう二年くらい付き合っても、掴める自信はなかった。
結局、市内にあるのに一度も行ったことがない迫浜の海岸に、図らずも興味が湧いてしまい、直樹の言葉に従った。校内に漂う気だるさに取り憑かれていたので、気分転換になれば、と思ったからなのかもしれない。
川を渡り、線路を越えて、ビニールハウス地帯を抜けると、急に道が悪くなり、路肩は凹凸が激しくなった。
「いってえ、ケツいてえ」
「ゴメンゴメン」
自転車の前輪が砂利を噛んで、勢い良く小石が飛んだ。土埃の中をよろよろと進んだ。
荻迫の東に広がる水平線上には、もう夕方というよりは夜に近い色が現れ始めていた。
簡素な築堤から飛び降りると、そこは踏み均されていない柔らかい砂山のようになっていて、思ったよりも深く足が埋まった。
「いっそ堪えがたい寂寥感を味わいたかったんだけど」
現代文の教科書みたいなことを言う奴だ、と岳人は思った。
「男二人で来たら、死ぬほど寂しくなるかと思ったけどそうでもないな」
直樹は呟いて、乾いた砂を軽く蹴った。狭い浜辺にある二人の背には、貧弱な防風林と、市街地と砂浜の曖昧な境界が迫っていた。
「なんかさ、俺も彼女作って童貞卒業したかったけどいざ真剣に考えるとめんどくさそうでさ」
西から辛うじて差す疲弊した日光が直樹の横顔を浮き上がらせた。二人は波打ち際へ向かった。