八国ノ天
「お婆さん。カムイとは何なのでしょうか? 人を助けるためにカムイが生まれたのなら、なぜ、私にはカムイの能力を消す力があるのでしょうか? 私には書も無ければ、失われた文明の知識も無い。私に出来ることは目の前の敵を倒すだけ……そうやってしか、木沙羅さまやキアラのお姉さんを助けられないなんて……」涙が溢れてくる。
「木霊……お前さんがわからないのも無理はない」老婆は言った。「お前さんは、佳世から木霊になろうと決めたのだろう。そして、カムイ天として生きていくと。だけど今、お前さんの心には迷いが生じている。本当はお前さん、初めからカムイとして生きることを望んでいないだろう?」
言葉にされて初めて、はっきりと認識する。この三年間、誰にも気付かれないよう、心の奥底にひっそりと閉じ込めていた本心。そして、自らも触れないようにしてきた自分だけの秘密。そう――、
私はカムイを望んではいない。
「お前さんの言うとおり、カムイに課せられた役割というのは重い。なにせ文明とか歴史をどうこうしようと、いうのだからな。あまりにも重いよ」
そうなんだ。私には重すぎる――私はただ昔に戻りたいだけだ。たったそれだけのことなのに。
「だけどな木霊。どうあがいても昔には戻れないんだよ。それに、そのような迷いを抱え込んだまま、木沙羅を助けても仮面は外れない」
「ああ……」頭が真っ白になりそうだった。迷っていたものが、はっきりと見えてくる。
「もう、お前さんには見えているだろう。カムイの使命なんてものは、その後の話だよ。まずは目の前のことを全力で取り組みな」
心の枷が消えた。少なくとも木霊はそう思った。
私は生まれ持ってのカムイの能力を自ら否定していた。それにも関わらず、都合の良い時だけカムイ天を名乗り、木沙羅さまを助ければ天罪ノ面が外れると考えていた。
カムイの能力を打ち消す天の力……その力が存在する理由、それが何を意味するのか、今はわからない。それは当然だ……まだカムイとして私は何もしていないのだから。
私に必要なことは、自らの力……カムイ天である事を受け入れること。
そして、木沙羅さまとキアラのお姉さんを助ける――今はそれだけで十分。そう、十分なんだ。
「お婆さん、ありがとうございます」
老婆が初めて微笑む。
「木霊。お前さんの戦いはこれからだ。相手もお前さんと同じように心の底に熱い想いを秘め、生きるために戦いを挑んでくる。この先、多くの敵を倒さねばならん。特にカムイ同士の戦いは熾烈を極める。しかし、これだけは忘れるな。カムイ同士の戦いは能力や身体の優劣が勝敗を決めるのでは無い。心だ。心の強さが決める」
木霊は黙って頷く。
「木霊。お前さんに今のうちに渡しておきたいものがある」
そう言って、老婆は部屋から出て行った。
木霊は部屋の中を見渡した。
よく見ると、部屋の片隅に膝の高さほどしかない小さな箪笥があった。
(あれが写真というものか? 十真が見たものをそのまま、絵にしてしまう道具があると言っていたけど)
箪笥の上には写真立てがあった。よく見えないが、何かの風景が写っていた。
その写真立ての隣にもう一つ、同じような写真立てがあるが伏せてあって何が写っているか確認できない。
老婆が手に何かを持って戻ってくる。
「渡すものは全部で三つある」
老婆は一つ目を渡す。
「これはカムイ月の剣。月のカムイは本来、二刀流だ。わけあって私たちがそのうちの一本を持っていた」
(私たち?)
そして、もう一つ老婆が渡したものは小箱だった。
「これは?」
「これは太陽のカムイに、お前さんから渡して欲しい」
「キアラからでは、駄目なのですか?」
「私に実際に会ったお前さんから、渡した方が良いだろう」
「わかりました」
「三つめはお前さんのだが、それは明日の朝、渡そう」
翌朝、目が覚めると枕元に木霊の服が折り畳んで置いてあった。
その隣にもう一着、見たことの無い服が一式、置いてあった。木霊はそれを手に取ってみた。
(これは……、私の服に似ているけど、丈夫にできている)
その服は見た目とは裏腹に、ちょっとやそっとでは破れそうになかった。
木霊は顔を洗い身支度を整え、居間に移動した。
居間には既に食事の用意ができていた。
食器に盛られた料理は二つ。
昨日、木霊が座っていた場所に一つ。
もう一つは老婆が座っていた場所ではない。
木霊はためらいつつ、昨日の場所へと座る。そして――、
部屋に入ってきたのはキアラだった。
「キアラ……?」木霊は目を疑った。
あれほど大怪我をしていたのに立って歩いている。顔色も嘘のように健康そのものだった。
キアラは木霊から見て九時の方向に座った。
「おはよう木霊」
「おは、よ、う……。な、キアラ。怪我はもう大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だ。傷跡もないくらい綺麗に治っている」
「今までどこにいたんだ? よくこの部屋に来れたな」
「いや。それが俺も驚いているんだが、この家……むかし住んでいた家とそっくりなんだ」
「え? そうなのか?」木霊はわけが分からなかった。そういえば、あの老婆は?
「な、キアラ。お婆さんには会わなかったか?」
「いや、誰にも会っていない。だいたい俺たち以外に、人の気配はしないぞ。なあ、木霊。傷が治ったのはいいんだが俺は何日間、眠っていたんだ?」
木霊は昨晩のことを話した。しかし、その話の中に自分の迷いについては含めなかった。話せば自分が佳世だったことに気付くかもしれなかったからだ。一通り話し終えると、老婆から受け取った刀をキアラに渡す。
「そうか、この刀を……。もう一本あったなんて初めて知ったよ。すると、木霊の着ているその服も、そのお婆さんからもらったのか?」
「うん」
「そのデザインは二三〇〇年代のものだ。似合ってるよ」
「そうか? ありがとう」少しだけ恥ずかしい。
「それに――」キアラは言った。
「ん? どうした?」
「何か良いことでもあったのか? なんていうか木霊……元気になったというか、スッキリした感じがする」
「……そうかもしれないな。キアラだって元気になって良かったな」
キアラはありがとう、と言うと、
「せっかくだから、いただくとしよう」
食後。キアラは木霊に話しかけた。
「木霊は、お婆さんから書について何か訊かれなかったか?」
「いや。何も訊かれなかったけど……どうして?」
キアラは光明ノ書と鍵について、昨晩まで持っていなかった事を話した。
木霊は黙って聞いていた。昨晩まで持っていたのはもちろん、木霊だ。
しかし、木霊からその事を話せば、なぜ持っていたのか疑問に思うだろう。
キアラは佳世が光明ノ書と鍵を持ち出したことを知っているわけでもなく、木霊が佳世であることも知らない。
「いや。何も知らないなら、いいんだ」
それで、話は終わった。
食事を済ませた後、しばらくの間、老婆が現れるのを待ったが一向にその気配もなく、二人は出発することにした。
玄関を出ると、もう一頭、馬が用意されていた。
木霊とキアラはそれぞれ、馬に乗り狗奴国の方へと歩きだす。
朝もやのかかった森の道に、陽光が細い柱となって差し込んでいる。