八国ノ天
「眠っちまったさね。さぁ、早く連れて行きな」
入り口から男が黙って入ってくる。男は佳世を抱きかかえると、すぐさま部屋の外へと消えた。
男が立ち去ると、女将はテーブルの上を拭いて、お菓子と湯のみを盆にのせ部屋を出て行った。
3
佳世は夢を見ていた。あの晩と同じ夢――。
しかし、夢は強制的に中断されてしまった。
誰かに身体を揺さぶられて、佳世は目を覚ました。
目の前に見知らぬ男の顔があった。男は佳世が起きた事を確認すると、佳世の視界から消えた。
佳世は土まみれの床に横たわっていた。石畳のような床はひんやりとして冷たかった。
顔を手で拭いながら上半身を起こし、周りを見渡すと数メートル離れた所に、男が数人並んで立っていた。男たちは皆、みすぼらしい格好をしていた。
佳世はその男たちに違和感を覚えた。なぜならその男たちは皆、目の部分を覆った黒い仮面をつけていたからだ。仮面の中央には白い文字が大きく描かれていた。ある者には【一】、別の者には【二】や【六】といった数字が。その他にも【重】や【死】が描かれていた。最も奇妙だったのはその仮面には目の穴が無かった。
彼らは見えているのだろうか。佳世がそう考えた時――。
ぎょっとした。
全員が佳世を見ていた。顔を向けていたと言った方が正確な表現かもしれないが、確かに彼らは佳世を見ている。
周囲の静けさと暗さも相まって、恐怖が体の中を蹂躙していた。心臓が高鳴っていく。
しかし、それ以上のことは何も起こらず、すぐに男たちは佳世から目を外すと前に向き直った。
佳世は、ほっとして気を取り直すと再び、周りを見渡した。
男たちの後ろには、この場所を取り囲むようにして崩れた壁が並んでいた。壁の向こうに竹林が見える。
ここは昔、何かの部屋だったのだろうか。
上を見ると天井は無く木々が空まで伸びていた。その先には遠く夕暮れの空があった。
陽の光が差し込まないこの場所は、薄暗く寂しい雰囲気を醸し出していた。笹の葉がこすれ合い、油蝉に混じって寄せては打ち返す波のように、ひぐらしが鳴いていた。
後ろを振り返ると、鳥居が立っていた。つたや土にまみれた壁と見比べても、その鳥居は最近になって建てられたもののようだった。
佳世は思った。ここは何か儀式をするための場所であると――。
首筋から胸の谷間へと冷たい汗が、一滴また一滴と伝っていくのがわかる。
早くこの場所から立ち去りたかった。
「目を覚ましたか?」
硬直――。
佳世は振り向いた。
いなかったはずの場所に、初老の男が立っていた。
「わしはバド。ここは田霧村、と言えばわかるかな? わしはこの村の長をしておる」
白髪交じりの髭が揺れ動く。
「田霧村……じゃ、私はあの人に騙されて……」
「あの宿の女将のことか。そうだな。だが、そんなことはどうでもよい。ぬしはここで一生、奴隷として生きることになるのだからな」
そう言うとバドは、懐から何かを取り出す。
「――っ!」
それは佳世が持っていた光明ノ書だった。
「これをどうして持っている? ぬしは八国の者であろう? 正直に話せ。ここで嘘を言っても何もならんぞ」
佳世は疑いの目でバドを見たが、抵抗は無駄と悟ったのか、
「それは月のカムイ様のものです。捕まっていたカムイ様に代わって、私が狗奴国から取り返しました。どうぞ、返してください」
「月のカムイ……そうか、ならばこれは光明ノ書だな。八国争乱の話は本当のようだな。すると、ぬしはヒムカの王女か?」
「いえ……私は……」
「私は? どうした?」バドが問い詰める。
「その子はヒムカの侍女ね」
佳世は驚いて声のした方を振り向いた。声に驚いたのではない。
(櫛、さん……?)
「麗か……」
「私も同席してよろしいかしら?」
何のとまどいもなく、身分を言い当てられたせいかもしれないが、佳世はその場に櫛がいるような錯覚を覚えた。それほどまでに、麗の雰囲気は櫛に似たものがあった。
しかし、容姿は櫛のそれとは違っていた。絹のように滑らかな金色の髪と透明感のある翡翠色の大きな瞳が可憐さを演出している。櫛を初めて目にした時もそうであったが、麗の美しさは一度目にしたら、忘れることができないほどの輝きを放っていた。
「かまわん。それで、ぬしはヒムカの侍女なのか?」麗はバドの隣に立った。
「……はい」
「ならば、月のカムイと王女はどこにいる?」
「わかりません」
「名前は?」
「佳世です」
「姓は?」
「……みさとむらさきです」
「聞かない姓だな。漢字でどう書く?」佳世は、差し出された紙に書いた。
「美郷紫 佳世か。ところで、ぬしは今まで何をしていた? 王女を探していたのか?」
「そうです……あの……」
「何だ?」
「私はここにいる必要も理由がありません。みんなの所へ帰してください」
「理由? ぬしは奴隷として売られたのだ。だから、ここにいる。それにぬしは書を持っていた。これは大罪に値する」
「それは違う! さっきから、あなたは勝手なことを言っています」
「ぬしは気が強く賢そうだ。だが、周りをよく見よ。自分の置かれている状況を見失っては命がいくらあっても足りんぞ」
佳世は唇を噛みしめた。
「話を続けようか。あの卑しい女将の話では、ぬしには連れがいるな。天狗の女が二人。少し年齢の高い男が一人。そして、背の高い美しい女が一人と聞いている。天狗はいい。残り二人はカムイか? 男は地のカムイではないのか?」
「女の名は櫛と言いませんか?」
佳世は確信した。明らかにこの二人はこちらの素生を知っているようだった。
バドは尋ねているのではない――確認している。
「ぬし、『なぜ、そのような事を知っているのか?』って顔をしているぞ」
バドは一旦、目を閉じてから口を開いた。
「制裁者」
「え?」
「わしらは、制裁者だ。制裁者のことは何か聞いているか? 地のカムイや櫛は何か言っていなかったか?」
「……いえ……何も」
「まぁ、そうだろうな。ぬしが知っている事といえば、せいぜい明道記に書かれている事であろう。だが、あれに書かれている事は間違っておる」
(まただ。また間違っている……官兵衛さんもそう言っていた……いったい過去に何があったの?)
バドは話し始めた。
「かつて人類は、戦争によって自ら滅びを招いた。それが三五〇〇年前だ。制裁者の当時の役目は、戦争を終わらせることだった。そして、制裁者は終わらせることに成功した。力でもってな」バドは一呼吸入れた。「戦争が終わった時、書を残して人類は何もかも失っていた。人類が再び同じ道を歩まないよう、制裁者はある手段を講じることにした。それは絶対的な力による制御。力によって、地上の文明が発展していくのを抑え込んだ」
「そうして一〇〇〇年前、国を滅ぼした?」佳世は言った。
「明道記か。違うな。滅ぼしたのではない。わしらは脅威を取り除いたのだ」
「脅威……?」
「一〇〇〇年前、弓や剣しか持っていなかった人間がある日、書を手に入れた。だが、彼らは書からは何も学ぼうとしなかった。一部を除いてな」
「……」