今、会いに行く
俺は、彼女のそんな願いを叶えて上げたかったんだ。
……あれから十年が過ぎた。
お前も、もう十分に大きくなって、大人になっていることだろう。
お父さんは、最近、お母さんのことを思い出せなくなってきている。彼女の笑顔や、共に過ごしたたくさんの思い出を。
人が死ぬのは、誰かの中から永久に忘れられた時だという。だとしたら、お母さんのことをお父さんが忘れてしまったとき……お父さんの中のお母さんは、本当に死んでしまうのだろう。
お父さんは、二度もお母さんを殺したくはない。
本当に勝手な親ですまない。
これをお前が読んでいるころには、お父さんはもう、この世にはいないと思う。
もしも、まだお父さんを親だと思ってくれるのなら……いつか、お母さんと同じお墓に入れてほしいと思う。
お父さんは、お母さんに会いに行く。
今、会いに行く。
P.S.いつかまた、行きたかったな』
最後の一文に首を傾げながら、次に、私は母の手紙を開いた。
『お元気ですか?』
懐かしい文字が、便箋の上に踊っている。
『あなたも大きくなって、今は何をしているでしょう? あなたの隣には、誰か素敵な人がいるでしょうか。もしもその素敵な人と、素敵な人生を歩めているのなら、こんなに嬉しいことはありません。残念なことがあるとするのなら、わたしたちは、恐らくそれを見ることは出来ないだろう、ということ。
まず、あなたにお詫びをしなければなりません。
わたしが病気で倒れて以降、あなたや、お父さんにはとても迷惑をかけました。お父さんは、そのおかげか、結構荒れてしまったみたいですね。本当に、ごめんなさい。
そして、わたしがこういう形で終わりを迎えること……あなたを、殺人犯の娘にしてしまったこと。それは、本当に、申し訳なく思っています。でも、わたしは、苦しみ抜いた果ての終わりよりも、自分自身で終わりを選びたかったのです。それは、たくさんの人を巻き込む、とても我儘なことであると、知っていても。
わたしは、あなたが思う以上に、我儘で自分勝手な女です。
お父さんと出会って、付き合うようになって。両親にはもちろん、周りのみんなにも反対されました。その時、何があったのかは、今、この場では書くことではないでしょうから、記すことはしません。
知っているかもしれないけれど、わたしたちは、周囲の反対を押し切って、双方の家と縁を切って、結婚しました。
まるで小説やドラマのようですが、現実はそういいものでもなく、私たちの結婚生活は波乱続きでした。もう、本当に二人で死ぬしかないんじゃないのか――そう思ったときに、あなたがわたしのお腹に宿りました。まだ、わたしが二十をちょっと超えたときのことです。ちょうど、今のあなたぐらいの年頃でしょうか。その時の嬉しさは、恐らく、あなたもいずれ経験することでしょう。
知っての通り、わたしはあまり身体が強くありません。あなたを産むことも、実は医者には反対されました。ひょっとしたら母子ともに死ぬかもしれないと。お父さんには秘密にしましたが。
それでも、わたしはあなたを産むことを選びました。あなたを危険に晒すと知っていても。わたしは、あなたに一目会って、ありがとうと言いたかったのです。
もっとも、あなたの記憶にはないでしょうけれど。いつか、面と向かって言う日を楽しみにしていたのですが(その日は多分、あなたの結婚式でしょうね) 、残念ながら、わたしの身体は、そこまで持ってくれなかったようです。
今日は、あなたの誕生日です。
わたしは今、あなたの寝顔を見ながら、これを書いています。
この日に……わたしは、お父さんの手によって、命を絶ちます。それは、わたしのエゴです。
いざ書くと恥ずかしいですが、わたしはお父さんが本当に大好きです。もちろん、あなたも大好きです。二人と離れてしまうのは、本当に辛い。何故、わたしが死ななければならないのか、神様に訊いてみたいところです。
わたしが死ぬことが、運命だというのなら。
病気に屈して死ぬことよりも、愛する人に、命を絶たれたい。
えぇ、本当に我儘極まりないと思います。でも、わたしの人生は、お父さんと、あなたがいなければ成り立たなかった。だから……お父さんに、最期は看取ってほしかったのです。
あなたには、わからないかもしれない。
それでもいい。ただ、お父さんが、なぜわたしを殺めたのか。それだけは知っておいてください。
あなたが、末永く、幸せであるように。
遠い空の彼方で、あなたをずっと見守っています。
わたしたちの娘として生まれてきてくれて、本当にありがとう。
わたしたちは、いつまでも、あなたとともに』
母は、字が綺麗だった。しかし、この手紙の字は、時折震えて、滲んだりしていた。それは、母が涙を落としたりしたということの証明なのだろう。
最後に、封筒にまだ残っていた画用紙を開いた。
それは、クレヨンで描かれた、一枚の絵だった。
花畑の中の、手を繋いだ三人が並んだ絵。
いつだったか、私が描いた。
私もこうして歳を取って……二人の言葉の、少しでも、わかるぐらいになったのかもしれない。そう思ったからこそ、父はこうして手紙を送ってきたのだろう。
私は、二人がとても好きだった。
それは、今も変わらない。
孝行したいときに親はなし、なんてよく言ったものだと思う。本当に、その通りだ。
出来ることなら、私は。母と父に、今の私を見せてあげたかった。
ものすごい幸せだよって。
二人みたいに、大切な人が見つかったよって。
――私は、もうじき結婚する。
彼は本当に、素敵な人で……って話は、ここで書くことじゃないし、恥ずかしいからやめておく。とにかく、父と母に匹敵するぐらい、大事な人だ。
だからこそ、母の気持ちが、今、私には少しわかる。
もし、それが避けえないのだとしたら。
自ら……あるいは、愛する人の手で、私の生を終わらせてほしいと、思わないでもないから。
とはいえ、人殺しはやっぱりいけないことだ。それはわかっている。
死を、殺人を、美談にするつもりもない。父は、母を殺した。そこにいかなる理由があっても、それは正当化されることはないし、してはならない。
ただ、当人たちにとっての救いはどこにあるのか。
それと、社会通念は、別だと私は思うのだ。
父と母の間にあったのは、どこまでも清らかで、ひどく純粋な無償の愛。
二人は、あっちでちゃんと再会出来ただろうか?
生きていたころのように、仲睦まじく、今の私が見れば恥ずかしくなるような毎日を過ごしているのだろうか?
私がこの後、数十年生きた果てに……もしもそっちに行って、二人と再会出来たのなら。
そのときは、たくさんの話を出来ればいいと思う。
後に生まれるだろう、二人の孫の話とか。
私の生涯が、どれほど幸せで、満ち足りていて……そして、私の旦那様が、父に匹敵するぐらいに素敵な男だってこととか。
そんな、些細なことを、たくさん。
さて、そろそろ筆を置くとしよう。
やることは山積みだ。結婚式の準備に、病院にもいかなきゃいけない。父も、母と一緒のお墓に入れてあげたいし。