今、会いに行く
彼女の病は手術だけでは取り切れていなかった。
手術は、病状の進行を多少遅らせることが出来たというだけで根本的な解決には、到らなかったのだということ。
あとは、投薬に頼るしかないという状況。
あの薬は、本当に薬なのか? そんな疑問を、当時の私は抱いていた。だって、薬を投与するために病院に向かい、帰ってきた母はいつも衰弱しきっていたからだ。
母のそんな姿は、本当に痛々しくて……私は、そんな辛い薬なら、飲まなくていいと(本当は飲むものじゃないのだけど) 思ったものだった。
それでも、母は笑っていて……どうして、この人は、自分が辛いのに無理に笑えるのだろうって、漠然と考えていた。
母の手術が終わり、結果が出てから。
父は、少しずつ荒れるようになっていた。
最初は些細なことで、ちょっとした八つ当たりじみたこと……枕を投げたりだとか、そんなこと。しかし、それはだんだんとエスカレートしていった。
よく、ものが壊された。
自分を傷つけてもいた。
世界中を呪っていた。
理不尽さに叫んでいた。
それでも、彼は私に手を上げなかった。
彼は、最後の一線でギリギリ踏みとどまっていたのだと思う。狂いだしそうな恐怖と、現実の間で。
母が病気を患ってから、明らかに私たちの生活は苦しくなっていた。病気の治療も無料ではない。保険が利くとはいえ、その額も安いものじゃないだろう。おまけに子供を抱えているのだから、その出費はやはり少なくはないだろう。
父は、帰ってくるのが遅くなった。仕事を増やしたのだろう。家にいる時も、疲れたような顔をすることが多くなった。私だけに食べさせて、自分はご飯を食べないことも多くなった。
……今になって思えば、どうして親戚なりに頼らなかったのだろうと思ったけど、それも仕方のないことだったらしい。
というのも、二人はほとんど駆け落ち同然に、反対を押し切って結婚したのだそうだ。以来、両親たちに連絡もほとんどしていないそうで、頼ることは、出来なかったと。
だからか、母も父も……私に、ずっと申し訳なさそうにしていた。
私は、そんな二人の表情を見ているのが、とてもとても、辛かった。
そんな日々が、しばらく続いたある日。
母が、また倒れた。
私たちは、もう、どうしようもなかった。
とにもかくにも、母は入院。私と父は、部屋の隅で頭を抱えているだけの生活になった。
目の前に、母の死がちらついていた。
私たちには、もう、何もなかった。
生きていくためのあらゆるものが、なくなっていた。
母は、私たちの支えだったから。
そんな風に、食事もとらず、ただ空虚な日々を二人で過ごしていたところに……母が、帰ってきた。
私たちを見た彼女は、呆れたように
「わたしがいないと、何にも出来ないの?」
そんな風に言って、笑っていた。
いつもみたいな笑顔で、笑っていた。
父は泣いた。私は、父が泣いているところを初めて見た。なんだかそれを見ていたら私も、涙が出てきて、母にすがりついて泣いた。
母はあらあら、なんて言いながら、泣く私たちを抱きしめてあやしてくれた。
ひとしきり泣いたあと、父は、母を抱きしめながら言った。
「みんなで、一緒に死のうか」
母は少し驚いたような表情を見せて、そっと父の身体を離すと……平手打ちを食らわした。
ぱちん、といういい音。父はあっけに取られたように目を見開いていた。
「嫌よ」
柔らかな口調で告げられる、明確な拒否。
「どうして!?」
「逆に、どうしてみんなが死ななければいけないの?」
「どうしてって」
口ごもる父に、母は珍しく、強いまなざしで言った。
「あなたにも、わたしにも。この子の未来を奪う権利は、どこにもないわ」
そして、私を抱き寄せた。
母の身体は、とても暖かくて。
その暖かさに、無性に涙が出そうになって。
「この子を、わたしたちのエゴで殺すことなんて……出来ない」
静かに微笑みながら、母は、目にいっぱいの涙を溜めて言った。
「だってこの子は、私たちの希望だもの」
「なら、俺たちだけでも」
いいえ、とまた母は首を振る。
「あなたは生きて。生きて、私たちの希望を、この子の未来を、見つめてあげて。この子が歳を重ねて、いつか、わたしたちの気持ちを理解できるようになるその日まで」
そして、柔らかな笑顔。
「わたしは、きっともうじき死ぬ。もしも……もしも許されるのなら、たった一つだけ、あなたに我儘を言ってもいい?」
ずっと……二人の会話は、覚えていた。
母が、何かを決めたように見えたから。私は、この人たちの言葉を、胸に刻んでおかなきゃいけないって、小さいながらも、思ったんだ。
その直後、母は、動けなくなった。
病院にいれば、痛みを和らげることも出来ただろうけど……治療を受けることも、出来ない。
苦しむ母に、私は、何も出来なかった。
そして――父は、母を殺した。
その日は、とても晴れた日で。
とても、とても。
――晴れやかな、私の誕生日。
裁判が終わったのは、母の死から少し経ってからのことだった。
父は、結局、有罪にはなったものの、なんだか難しい理由をつけられて、執行猶予なるものが付いた判決になった。
わたしは、裁判にはいかなかった。
だって、施設にいたからだ。
親戚は、誰も相手をしてくれなかった。当然と言えば当然だから、あんまり恨む気にもなれなかった。それに、私は誰にも会ったことがない。それって、顔も知らない他人と何が違うのか。
執行猶予を受けた父は、どこかへと消えた。
私一人を、置き去りにして。
私はそこで、本当に理解した。
もう……あの毎日は、戻ってこないのだと。
父と母は、もう、どこにもいないのだと。
そして、私が二十歳の誕生日を迎えてすぐの、先日。
長いこと音信不通だった父からの、一通の手紙が届いた。
私にしてみれば、父は、半分死んだような存在で。まるで死人から手紙が届いたみたいな驚きがあったりしたのだが、内容を見て、もっと驚いた。
そこには、十年前に亡くなった、母からの遺書めいた手紙も同封されていたからだ。
逸る気持ちを抑えながら、まず、父の手紙を開く。
『お前の前から突然姿を消して、本当にすまないと思う。どんなに言い繕っても、自分が殺人犯であること、そして、この十年に渡って、お前の面倒を見なかったことの正当な理由にはならない。
お父さんは、お母さんを殺した。
例え、裁判という場で、社会的に裁かれて、許されたのだとしても。そんな血に塗れた手で、お前にどう会えばいいのか、お父さんには分からなかった。お父さんは、お母さんほど強くはないから。
ただ……お父さんは、お母さんを殺したことを、悔やんではいない。
もちろん、人殺しは悪いことだ。お母さんも、お父さんも、それは十分に理解してる。それでも、俺は、お母さんの尊厳を守りたかった。
白状すれば。
お母さんの、そんな我儘で……それでも、まっすぐ前を向いていける、その強さが、俺は好きだった。
最後まで、彼女は誇り高かった。
病に負けて、苦しみながら死ぬよりも、俺に殺されたいと。彼女はそう言っていた。