幻影に泳ぐ男
そうして、妄想と現実の狭間にある幻影から抜け出すのを拒絶している。
それを幻影と気付いていない。
魚は、水中を泳ぎながら、水を見ず。人は、空気中にいながら、その気を見ない。という言葉がある。
狂人とは、幻影を幻影と知らず、幻影の海を泳ぐ魚のようだ。
「女の身体の中には、何もなかった。騙されていたんだよ。―――俺達は。俺は、女の身体の中にも、心臓や、内臓や、脳味噌が入っていると、思っていた。だが、そんなのがあるのは、俺達男だけだ。女の身体の中には、何にも入っちゃいない。あるのは、彼処の肉と、尻と、乳房と、口だけだ」
俺は泣き出したくなった。
こいつは……。
やばいなぁ、また狂ってしまったんだ…。どうしよう。
「女は、どこだ」
俺は何とかこの場を切り抜けようと質問した。
「見るのか?」
見たくはない。
「……うん」
何とかこいつを説得して無理やりにでも警察へと届けなければ。
「見たら、信じてくれるよな。お前なら信じてくれるよな」
安永は遠い遠い目をして繰り返した。
寝室に入る。
ベッドのシーツの隙間から、白い女の足が見えた。
「電灯は?」
「さっき、暴れて、割った…」
安永は下を向いたまましゃべっている。
暗闇に少し目が慣れてくると、カーペットの上に電灯の破片が散っているのが分かった。
「懐中電灯は?」
「玄関にある」
「取ってきてくれ」
安永が懐中電灯を持ってくる。それを受け取り、床を照らす。血は飛び散っていない。
安永の言う通り、血はない状態だ。
それだけで、記憶の彼方から思い出されかけていたスプラッタ映画のワンシーンを見ることはなさそうだと思った。
スリッパを履いて用心深く、破片を踏まないようにベッドへ近寄る。ベッドからは、だらんと弛緩した女の足が覗いていた。
そちらをなるべく見ないように近寄る。いやな音がした。奇妙な音だった。この場に不似合いな音だった。その音の正体を確かめようと、シーツを一気に剥ぎ取る。
そしてそれを見た俺は笑い転げた。笑い過ぎて懐中電灯の光がゆらゆらと揺れた。
こんな、可笑しなことはない。
やっぱり安永は本当の「気違い」なのだ。
そこには、安永の言った通り、心臓も、内臓も、脳味噌も無い―――彼処の肉と、尻と、乳房と、口だけが動く空気が抜けたダッチワイフが転がっていた。