幻影に泳ぐ男
―――夜中の二時半に、携帯電話が鳴って、目が醒めた。普通の電話が掛かる時間ではない。
こんな時間に誰だ、と思いつつ通話ボタンを押す。
友人の安永からだった。声が尋常ではない。ひどくうわずっていた。
「これから言うことを、驚かないで、聞いてくれ。……俺、人を殺しちゃったよ」
その言葉を聞いて、一気に眠気が醒めた。
―――どういうことだ。
当たり前だが、俺はこういうカミングアウトをされたのは初めてだ。警察にはまだ連絡していないらしい。
「ちょっと待て。……どういうことなんだ」
「……あの女……横断歩道の真ん中で……ビラビラを見せながら歩いてたんだよ。……俺、それを見たら、急に、それを箱に詰め込んで部屋に飾っておきたくなったんだよ」
言っている言葉の意味がさっぱりわからない。
だが、安永が肉切り包丁を振り回して、女をバラしているシーンが想像できて、気分が急降下する。
安永には二回の精神病院への入院歴がある。
「分かるだろ?」
安永は言った。
安永は警察には連絡しないでくれという。しかし、捕まったとしても実刑にはならないかもしれない。だが、病院送りだ。どのくらい出てこれないのかはわからないが…。もしかしたら一生かもしれない。
とりあえず、「わかった」と答えた。
今から会いたいと安永は言う。どういうつもりだ。
すごく憂鬱になった。なぜ、数ある友人の中から俺に電話してきたのか。
人を殺したという話を友達―――よりによって俺―――にするなよ。
まさか、俺に死体をバラバラにする手伝いをさせる気じゃないだろうな。俺は、ブルーシートを用意している安永を想像してゾッとする。
「今すぐ…車で来てくれ」
おいおい、俺の車で運ぶんじゃないだろうな? どういうつもりだ。
自分勝手な言い分だ。大体、人を殺すこと自体が自分勝手だ。そう考えると、怖さよりも憤りが先に立ち始めた。
何故か安永は無償に俺に頼ってきているようだ。俺が電話に出なかったら次はどうするつもりだったのか。
「自首するのか?」 俺が言うと、
「待ってくれ……」
「自首しろ。俺が付いて行ってやる」
「考える…時間をくれ」
「警察で冷静になってよく考えろ」
「ちょっと待ってくれ。俺が女を殺した理由(わけ)を訊いてくれ」
「さっき訊いただろ」
「違う…。あれは拉致の動機だ」
俺にとっては、動機がどうだとかはどうでもいいことだ。それこそ警察に話すべきことだろうと思った。
「で?」
「あの女…、背中に穴が空いてるんだよ……」
「はぁ? なんだそりゃ?」
「とにかく…、俺にもよく解らない」
俺にはもっとよく解らないが。
「確かなのは、あの女のビラビラがまだ生きていることだ」
……ん? 生きている?
「生きてるのか?」
「彼処の筋肉だけ」
蛇は、頭を切り落とされても、身体はしばらく動いて生きていることがあると何かの本で読んだことがある。ただ脳からの命令がないので神経だけでピクピク蠢いているのだ。
これは、殺人なのだろうか? いずれ殺人となるのは間違いないのかもしれない。だが、今の段階ではどうだろう。一応彼処は生きているという。これは、一般に言われる「脳死」というものだろうか?
スポーツマンなど特に心臓が強靱だった人が、「脳死」して「心臓」が生きている場合があるという。普通の人でも事故などでその状況にはなると聞いたことがある。詳しいことはわからないが。
司法検察の立場では「心停止」を以て「人の死」と認定している。しかし、彼処だけ生きている女というのはどういうことになるのだろう。
怖いのは百も承知で車を走らせる。
相手は「気違い」かもしれない。……いや多分そうだろう。
携帯電話は持ってきた。短縮ダイヤルに警察の番号を入れておいたのでいつでも繋がるはず。
辺りはいたって普通だ。人通りはあまりない。
この街の中で、今日、確実に「人を殺した人間」と「人に殺された人間」がいる。
だが「人殺し」自体はごく日常的に行われているし、それを気にも止めていない。気に止めるとしたらそれは、近所で起こったことか、知り合いが関連しているか、よっぽど残忍かだ。
今日の事件は、見事にその三要素が含まれている。
俺は何をしに安永の家へ向かっているのか?
ただ、殺人者の「言い訳」と「うだ話し」を聞きに行き「自首」を勧め「屍体」を見てゲロを吐く為に運転しているのか。
そうだとしたら、俺はお人好しもいいところかもしれない。
安永は、俺が分かるだろうか?
ひょっとして俺を切りつけにかかるということはないだろうか。そうだとしたらお人好しを通り越して馬鹿野郎だ。そんなことはないことを祈るしかない。
安永の家はマンションの三階。インターフォンを押すと、しばらくして安永が出てきた。
顔がいやになるほど白い。顔面蒼白とはこのことを言うのだろう。急に背筋が寒くなり、嫌な感じが胃の奥からじわじわとあふれ出し「来るんじゃなかった」と自分の向こう見ずな行動を反省した。
時間が戻せるのなら、安永の家のインターフォンを押す前の瞬間に戻ってくるりと踵を返して家に帰り、布団にくるまって眠りたい。
しかし、時間は戻るはずもなく、招き入れに従い部屋に入る。
部屋は花瓶が割れていることを除いて、意外なほど普通だ。他の部屋からも物音はしない。
「女」はもう死んだのか?
こういう時、どう声を掛けたらいいのか。
「最近はどうだ?」「いや、人殺してブルー」―――これではダメだ。
「この度は御愁傷様でした」「いや、俺が殺したんで」―――これでもダメだ。
膝がガクガクと震える。とりあえずソファに座る。安永も前に座った。
「話って?」
安永は視線が変だ。明らかに視点が宙に泳いでいる。
瞬きもしない。眼光が腐敗した魚のように白身がかっているように見えた。
「―――まだ、動いてた……」
「!―――」
勘弁してくれ。その言葉に胃がさらに萎縮するのを感じた。
「何が動いてたんだ」
安永は答えない。
もう帰りたい。帰してくれ。警察に電話をしなければ。それとも病院の方がいいのか。
「背中が裂けて、中が……」
安永はうわ言のようにしゃべった。
「血は?」
「ない」
「ない?」
「中は空だ」
やっぱりおかしい。変だ。安永の頭は。
友人が狂うのを見たのはこれで二度目だ。一度目は学生の時だ。あまり思い出したくない。
そいつは初め、時計の音が声に聞こえるようになり、やがて時計と話せるようになった。なぜ話せるようになったかというと、背中に病気があるからだという。
背中を見たことがあるが、そいつの背中には何もなかった。
だが、そいつは背中に「白い子供」がへばりついていると信じていた。
そいつはいつもその「白い子供」と喧嘩をしていた。悪の手先なのだそうだ。
「時計」は彼の味方だった。だがしまいには、「時計」も「白い子供」の味方についてしまい、彼は裏切られる形になった。
狂った人間は自分の中でも狂っているわけではない。
自分という殻の中で理論の整合性を見出だしている。
自分という価値基準の中では、それを認めてくれない他人が狂人なのだ。