タフィー
しばらくの沈黙が流れた。やがてウィンスタンは意を決したように顔を上げて、ヴィクトリアをみつめた。彼の澄んだ黒い瞳にみつめられて、彼女はまばたきひとつできなかった。
すると、ウィンスタンはトーレンスに向き直って、静かに言った。「いやだ、金は出さない。ヴィクトリアは物じゃない! 彼女は人間で、オレの大事な女性だ!」
途端、トーレンスの声が大きく響いた。「やっと言ったか、ウィンスタン・エクトール!」彼は、にやりと笑った。
そのときウィンスタンは気づいた。「お前、オレをはめたな!」気が動転して、真っ赤な顔だった。今にもトーレンスに殴りかかりそうな勢いだ。
「当たり前だ、八千ポンドだぞ! オレは八千ポンドも損するんだからな」トーレンスは笑いながら、契約書をウィンスタンの手に握らせた。「煮るなり焼くなり、好きにしろ」と言って、親友の肩をたたいた。
しかしウィンスタンは、頭を横に振った。「いや、受け取れないよ。お前が持っててくれ」
「気は確かか?」トーレンスは、意外な申し出に驚いた。
それでもウィンスタンは、うなずいた。「いいんだ。お前は人の弱みにつけこむヤツじゃない。オレはわかっている。ヴィクトリアのことだって、見捨てられなかったんだろ? お前は、そういうヤツだ」
真剣な目でウィンスタンにそう言われると、トーレンスは黙って引き下がるしかなかった。「預かるだけだぞ」そう言いながら、契約書を金庫に保管することに決めた。
「ヴィクトリア」ウィンスタンは、ヴィクトリアの名を呼んだ。
「はい」彼女は、ウィンスタンをみつめた。
「君の年季奉公が終わったら、オレは必ず迎えに行く。それまで待っていてくれないか?」
ウィンスタンの気持ちはうれしかったが、不安だった。「で、でも、まだ五年もかかります。それにわたくしは、年上です。」
「わかってる」ウィンスタンは彼女の手を取って、ソファから立たせた。「今度はオレのために、タフィーをつくってほしいんだ」
ウィンスタンは彼女を抱きしめた。「今日だけで、五年分の寿命を使ったみたいだ。おかげで疲れたよ。その分、君と同い年になったんじゃないか?」ヴィクトリアの甘い匂いがした。キスをしたら、タフィーの甘い味がするような気がした。
「わかりました」ヴィクトリアはくすくす笑った。「では、五年分の疲れをとるために、たくさんつくりましょう。とびっきり甘いのを」ヴィクトリアは顔を上げて、幸せそうに目を閉じた。
幸せにあふれるふたりを部屋に残して、トーレンスは廊下に出た。壁にもたれて廊下の窓を見上げたら、満月が彼を見下ろし優しく照らすのが見えた。ふと笑みがこぼれた。
「オレって、いいやつ」そうつぶやくと、ゆっくり廊下を歩いて階段を下りた。夜会が行われている大広間に出ると、給仕係からシャンパンを受け取った。
「トーレンス、どうだった?」人と人の間をくぐって、クロードが現れた。
「ばっちり」トーレンスは、手にしたシャンパングラスを目の高さまで上げた。
「でも、ほんとによかったのか? お前、かなり本気だったろ?」クロードはたずねた。
「まさか、お前の勘違いだ」
「ふーん、ならいいけど。それで、ウィンはどうしてる?」
トーレンスは、以前ヴィクトリアからもらった、タフィーの味をふいに思い出した。
割って食べなければならないほど固いけど、中身は思いっきり甘い。まるでヴィクトリアのようだ。ウィンスタンは、その彼女の頑な心を溶かしたのだ。そして中身にまでたどり着いた。思いっきり甘い味の……。
「そうだな、今頃タフィーでも味わってるんじゃないか?」
トーレンスは、口元にかすかな笑みを浮かべた。クロードは、そんな彼をからかった。
「お前、ほんとは彼女よりウィンが好きなんだろ? 素直じゃないヤツ!」
トーレンスは酔った振りして、クロードの足を思いっきり踏みつけた。
<終>