卵の記憶
「うん! ばっちり! 何か手伝おっか?」
「いや。もう終わるから座って待ってなさい」
「うん。分かった」
言葉通り、香絵はそれから間もなく戻って来た。
「さぁ。食べようかね」
「あ。……ねぇ、ばあちゃん」
「ん? 何だい?」
手を合わせ、「いただきます」と箸を持った彼女に、渉は声を掛けた。
「昨日はごめん」
「いいんだよ。大事に巻き込まれなかっただけでも」
にっこりと笑い掛けてくれた香絵に、渉も「ありがと」と、笑い返した。
「……それから、俺、嘘ついてた」
「え?」
「本当は山の中になんか行ってないんだ」
自分に向けられた怪訝な顔に、罪悪感を感じ、段々と小さくなる声で言葉を続けた。
「隣の家の子と話してたら遅くなって……」
「隣?」
「ほら、向こうに建ってる大きなお屋敷の事だよ」
言って指差した方に視線を向けながらも、香絵は眉を寄せた。
「何を言ってるんだい。あそこには誰も住んどりゃせんよ」
「え?」
だが、彼女が口にした言葉は、渉が予想だにしないものだった。
「あのお屋敷だろう? 確か……もう三十年以上、空き家の筈だよ」
「……嘘」
まるで、死刑宣告をされたかのようだった。
疑問と恐怖が頭の中を駆け巡る。
「でも、俺、あそこに住んでいる人と話たんだよ?」
「そんな筈はないがねぇ……。夢でも見たんじゃないのかい?」
「……嘘だ」
香絵の方が自分を騙しているような錯覚に陥いる程、困惑していた。
「だって、また会おうって約束したのに!」
「渉……?」
「そんなの絶対、信じない!」
「渉!」
いきなり立ち上がり、渉は家から飛び出していた。
(嘘だ。嘘に決まってる。……あれが夢だったなんて……!)
屋敷に向かって走る距離が、何だか長い。
「はぁはぁ……」
ようやく門の前に辿り着いた渉は、息を整えながら、手を伸ばすが、
「開かない……?」
扉は、冷たく重かった。
「……どうして?」
必死に開けようと門を揺らすが、誰も出て来る気配はない。
「まだ早いから起きてないんだ……」
そう思い込み、渉はそこで待つ事にした。
もう少しすれば、驚いた顔の小野坂が出て来て、温かい眼差しで屋敷に入れてくれるのだと信じて……。
だが、一時間経っても二時間経っても、誰も出てこなかった。
村人が、座り込んでいる渉を不思議そうに眺めながら、屋敷の前を通り過ぎていく。
そこに誰も住んでいない事を知っているかのように。
何時間経ったのだろう。
自分の前に影が出来たのに気付いて、渉は顔を上げた。
「……ばあちゃん」
そこには、柔らかな微笑を浮かべて祖母が立っていた。
「帰ろう、渉」
「……」
優しく手を差し伸べてくる香絵に、渉は小さく頷いて、その手を取った。
「話して頂戴。渉がここで体験した事を」
「ばあちゃん……」
小さな手をぎゅっと力強く握り返し、反対の手で渉の頬をゆっくりと撫でる。
それは涙を拭う仕種だった。
泣き顔を見られるのが恥ずかしいのか、戸惑うように顔を伏せる。
「泣きたい時は泣かないとだめだよ、渉。でないと、いつまでも苦しいまんまだからね」
「……ん……うん……!」
止めどなく溢れ出る涙に我慢が出来なくなり、ついに大声で泣き出てしまう。
香絵はそんな少年の小さな体を抱き締め、彼が泣き止むまで頭を撫でていた。
それから渉は、ぐしゃぐしゃになった顔で昨日の事をぽつりぽつりと話し始める。
屋敷の大きさに驚いた事。ケーキが美味しかった事。優しい笑みを返してくれた少年の事を……。
渉が話している間、彼女は黙って耳を傾けていた。そして全てを話し終えた渉に、一言だけ口を開いた。
「忘れるんじゃないよ、その事を」
と……。
香絵の言葉に、渉はただ頷くだけだった。
(バイバイ、望)
心の中で、今は居ない友人に別れを述べながら……。
4、少年が残したもの
その一年後、祖母が亡くなった。
あんなに元気だったのに、と母は泣いた。
渉も、泣いた。
そして、時間は過ぎていく。
大学入学が決まった渉は、両親には内緒で香絵の住んでいた村に行く事にした。
彼女の家は、既に空家になっていて、ほとんど手入れはされていない。
伸びきった草が、時の流れの速さを教えているようだった。
一通り村を見て回った後、目的の場所に辿り着く。
数年前までは門にも届かなかった身長は、高校に入って急速に伸び、今では二m近い壁にも腕が届くようになった。
試しに軽く押してみたが、やはり門は固く閉ざされている。
「よっ」
仕方なく、渉は勢いをつけて壁を乗り越え、地面に降り立ち玄関へと向かう。
あれから、渉はこの屋敷の事を調べた。
三十五年も前に売りに出されていた屋敷は、だが、買い手が見つからずそのままの形で残された。百年前に建てられた事と、売りに出される直前、主が亡くなったのだという事も。
主の名は、観月望。
そう。渉が出会ったあの少年の名前だった。
今になっても、何故あんな幻を見たのかは分からない。
夏の暑さが見せた、唯の幻だったのか……。
執事が入れた紅茶の味も、少年の笑い声も、まだこの耳に残っているというのに……。
唇を噛み締め、屋敷の奥に進む。
廊下を歩いていると、その記憶通りの場所に二人が話した応接間があった。
埃の被った取っ手を回し、ドアを開ける。
中はぼろぼろになったカーテンが閉められている為、あまり光は差していない。
渉は五年前、自分が座ったソファに腰掛け、ふと目に入ったものに顔を向けた。
「……あ……」
望が大事そうに扱っていた、あのイースター・エッグが、それだけ埃を被らずに輝いていたのだ。
蓋を開け、中に入っていたものに、首を傾げる。
「紙?」
そこには、四つ折に畳まれた紙が入っていた。
渉はそれを手に取り、開く。
「望……?」
中には写真が挟まれていた。
少年が、中央で椅子に座り笑っている。
自分に見せた穏やかな笑みを浮かべて。
一瞬、記憶があの日に戻った気がした。
涙目になりながらも、紙の方にも視線を向け、再び目を見開く。
『親愛なる我が友・渉へ
このエッグを君に捧げる。
追伸
渉に会えて良かった。本当にありがとう。
観月 望』
少年の性格が表に出たような丁寧な字でそう書かれてあった。
「俺もお前に会えてよかったよ、望」
渉は写真と手紙をエッグの中に仕舞い、ゆっくり蓋を閉じてから、思いを振り切るようにその場を後にした。
目を閉じれば思い出す。
あの少年の微笑を……。
『インペリアル・イースター・エッグ』
天才細工師、カール・ファベルジェ(1846〜1920)が、ロシア皇室のために製作した宝飾品。ロマノフ王家が信奉した東方正教会の祭典・イースター(復活祭)において贈り物とされる、美しく彩色された卵を、ファベルジェが、己の宝飾技術を用い、作ったもの。
イースター・エッグは、多少の違いはあるものの、ほぼ卵と同じ大きさで、表面には精緻な細工が施され、本体や内部には、精巧な仕掛けが内蔵されている。
五十六個製作されたと言われているエッグは、ロマノフ王朝の崩壊(1917)によって、世界各地に分散した。
-END-