卵の記憶
1、窓辺の少年
灰色の息を撒き散らしながら山道を登ってきたバスは、やがて停留所に止まり、一人の人間を吐き出して去って行く。
降りてきたのは、半袖のTシャツを着た中学生ぐらいの少年だった。
「ばあちゃん!」
大きなナップサックを背負い、元気良く手を振る先には、優しそうな雰囲気の老婆。
「よく来たね、渉(わたる)」
彼女――雨宮香絵(あまみや かえ)は、僅かしか開いていない瞳を更に細めて笑った。
「二時間もバスに乗ってたから、お腹ぺこぺだよ……。早くばあちゃんち行こ!」
「こらこら。そんなに引っ張らないでおくれ。転んでしまうよ」
笑い合いながら道を登る二人の影が、同じような長さで地面に横たわっている。
風が少しだけ吹いて、渉の髪を掠めて撫ぜる。
太陽は既に赤く染まり、山の中に隠れ始めていた。
「そう。もう二年生になるのかい」
「うん。勉強が段々難しくなって大変」
「そうかい」
夕食を食べ終わった後、団扇で暑そうに顔を扇いでいる渉に、冷たく冷えた麦茶を差し出しながら香絵は笑った。
ふ、と視線を泳がせた渉の目に何かが移る。
それは、いつ来ても「凄い」と思ってしまうような、豪華な洋風の屋敷だった。
少し離れた所に建っているにも関わらず、この家からも見えるほど大きい造りをしている。
普通の一般社会で育っている渉には、一生縁がない家だ。
けれど、一度でもいいから、あの屋敷の住人を見てみたい、と渉は思った。
翌朝。
耳障りな蝉の泣き声が響く中、渉は一人庭を眺めていた。
夏休みの宿題は、ここに来る前に全部終わらせた。香絵に会う事は、一年の中で正月と誕生日の次ぐらいに好きな日だ。
東京より涼しいし、彼女の作ってくれる料理は抜群に美味しい。川は冷たいから水遊びに最適だし、昆虫も沢山いるから、渉にとっては恰好の遊び場所なのだ。
ただ、この近くに渉と同い年の子が一人もいない事だけが少し残念なのだが……。
「……?」
誰かの視線を感じ、屋敷の方に顔を向ける。
「!?」
が、渉がそれを見るのと同時に、それは屋敷の中へと消えてしまった。
「……今の……子供、だったよな?」
窓の向こうからこちらを見ていたのは、確かに自分と同年代ぐらいの子供だった。
(誰か引っ越してきたのかな?)
香絵からそんな話は聞いていないが、もしそうだったならいいな、と渉は少しだけワクワクした。
だが、翌日もその翌日も、子供は渉が視線を向けるたびに、すぐに姿を消してしまう。
まるで、幻を見ているような気分になりながらも、渉はその影を気にかけるようになっていた。
そうして、一週間が過ぎ、夏の暑い日差しも大分和らいだ頃。
久しぶりに外に出てみようかと思った渉は、畑仕事をする香絵に一声掛けて、家を出た。
しばらく道を進んでいると、あの屋敷の前に辿り着く。
鉄格子のように頑丈な扉は、まるで渉を拒絶するかのように立っている。門の高さは二mはあるだろうか。今の渉の身長では、押す事も引く事も出来ないだろう。
渉は中を覗く為に、門に手を掛けた。
「……!?」
すると、力を入れた筈はないのに、門は勝手に開き始める。
(開いちゃった……どうしよう……?)
だが、屋敷内に入った途端、渉の不安は消し飛ぶ事になる。
「わぁ……!」
そこには大輪の花々が、花壇いっぱいに咲いていたのだ。
「……すごい……綺麗」
渉は感嘆の声を漏らし、その場に座り込む。
「喜んでもらえて光栄です」
「!?」
が、返ってくる筈のない答えに驚き、振り向きざまに立ち上がった。
「どうかなされましたか?」
「え……あの」
やんわりと笑みを浮かべて尋ねてきたのは、黒髪に白髪混じりの背の高い老人だった。
「すいません! その……勝手に入っちゃって……」
怒られるのを覚悟で謝った渉に、だが返ってきたのは柔らかな微笑みだった。
「構いませんよ。よろしかったらお上がり下さい。外は暑いでしょう? 冷たいお飲み物でもお出しますから」
「え? そんな……気を使わないで下さい。俺は……」
「いえ。実は、坊ちゃまに貴方様をお連れするように言われたのです」
慌てて誘いを断った渉は、彼が口にした言葉に、一瞬、動きを止めた。
「私はこの屋敷の執事で、小野坂(おのざか)と申します」
「あ、俺は雨宮渉っていいます」
「では、雨宮様。どうぞこちらへ」
「あ……はい」
(もしかしたら、あの子かもしれない……)
ほんの一瞬だけしか顔を見ていない、窓辺の子供。
会える、という期待感をつのらせながら、渉は屋敷の中に入っていった。
2、少年との出会い
「うわぁ……すごい」
壁に掛けられた絵画や、所々にあるランプに見惚れつつ、執事の案内通り奥へ進んでいた渉は、改めてこの屋敷の大きさに驚いた。
「ここが建てられたのは五十年前です。英国に仕事に出ていらした坊ちゃまのおじい様が、日本に戻って来た際に建てられました」
「五十年!?」
「ええ。私はその時雇われ、執事になりました。それからずっとここで働いております」
「へぇ……凄いんですね」
「いいえ。そんな事はございません」
そして、二年前に『坊ちゃま』の父親が病気で亡くなり、今は彼が第三代目当主だという事も話してくれた。
「他には誰もいないんですか?」
渉は、ふと気になった事を問い掛けた。
さっきから歩いていても、綺麗に磨かれた廊下に響くのは、二人の足音だけ。
小野坂はゆっくり首を振り、
「おりません。私達だけです」
「でも、だったら料理とか掃除は誰がやってるんですか?」
床も壁もピカピカで、毎日、誰かが掃除しない限りここまで綺麗になりはしない筈だ。
その質問に、彼は顔だけ振り返り、
「一週間に一度、何人かのハウスキーパーを呼んでいます。料理は二人分だけなので私が作るのですよ。買出しも私がします」
「小野坂さんが?」
「はい。……ああ、こちらです」
苦笑をもらして渉の問い掛けに答えた小野坂は、一つの扉の前に立ち止まった。
コンコン。
「開いてるよ」
暫くして、ノックの音に答えるように奥から微かに声が聞こえた。
「では失礼します」
恭しく礼をして扉を開けた執事に続いて、渉も部屋の中へと足を踏み入れた。
「お連れしました。坊ちゃま」
「うん。ありがとう、小野坂」
少女のような高い声。
「さぁ、どうぞ中に」
促され、ようやく『彼』との面会を果たす。
そこに立って自分を迎えてくれたのは、西洋人形のような白い肌を持つ少年だった。
(わ……綺麗な子)
口には出さずに感嘆の溜息をもらすと、少年はにっこりと笑った。
「こんにちは」
「え……? あ、こんにちは」
今まで、こんな子に渉は会った事がない為、緊張で体が石のように固まってしまった。
「では、私はお茶とケーキをお持ちします。お座りになってお待ち下さい。雨宮様」
再び、礼をして小野坂は部屋を出ていく。
「どうしたの? 座って?」
「あ、うん」
呆然と突っ立っている渉にそう声をかけて、少年は二人掛け用のソファに腰を下ろした。
それに習い、渉も反対側のソファに座る。
「急な事でびっくりしてるでしょ?」
「え?……あ、うん」
「緊張しなくてもいいのに」
「けど……」
くすくすと、女の子のような笑い方をし、少年は言った。
灰色の息を撒き散らしながら山道を登ってきたバスは、やがて停留所に止まり、一人の人間を吐き出して去って行く。
降りてきたのは、半袖のTシャツを着た中学生ぐらいの少年だった。
「ばあちゃん!」
大きなナップサックを背負い、元気良く手を振る先には、優しそうな雰囲気の老婆。
「よく来たね、渉(わたる)」
彼女――雨宮香絵(あまみや かえ)は、僅かしか開いていない瞳を更に細めて笑った。
「二時間もバスに乗ってたから、お腹ぺこぺだよ……。早くばあちゃんち行こ!」
「こらこら。そんなに引っ張らないでおくれ。転んでしまうよ」
笑い合いながら道を登る二人の影が、同じような長さで地面に横たわっている。
風が少しだけ吹いて、渉の髪を掠めて撫ぜる。
太陽は既に赤く染まり、山の中に隠れ始めていた。
「そう。もう二年生になるのかい」
「うん。勉強が段々難しくなって大変」
「そうかい」
夕食を食べ終わった後、団扇で暑そうに顔を扇いでいる渉に、冷たく冷えた麦茶を差し出しながら香絵は笑った。
ふ、と視線を泳がせた渉の目に何かが移る。
それは、いつ来ても「凄い」と思ってしまうような、豪華な洋風の屋敷だった。
少し離れた所に建っているにも関わらず、この家からも見えるほど大きい造りをしている。
普通の一般社会で育っている渉には、一生縁がない家だ。
けれど、一度でもいいから、あの屋敷の住人を見てみたい、と渉は思った。
翌朝。
耳障りな蝉の泣き声が響く中、渉は一人庭を眺めていた。
夏休みの宿題は、ここに来る前に全部終わらせた。香絵に会う事は、一年の中で正月と誕生日の次ぐらいに好きな日だ。
東京より涼しいし、彼女の作ってくれる料理は抜群に美味しい。川は冷たいから水遊びに最適だし、昆虫も沢山いるから、渉にとっては恰好の遊び場所なのだ。
ただ、この近くに渉と同い年の子が一人もいない事だけが少し残念なのだが……。
「……?」
誰かの視線を感じ、屋敷の方に顔を向ける。
「!?」
が、渉がそれを見るのと同時に、それは屋敷の中へと消えてしまった。
「……今の……子供、だったよな?」
窓の向こうからこちらを見ていたのは、確かに自分と同年代ぐらいの子供だった。
(誰か引っ越してきたのかな?)
香絵からそんな話は聞いていないが、もしそうだったならいいな、と渉は少しだけワクワクした。
だが、翌日もその翌日も、子供は渉が視線を向けるたびに、すぐに姿を消してしまう。
まるで、幻を見ているような気分になりながらも、渉はその影を気にかけるようになっていた。
そうして、一週間が過ぎ、夏の暑い日差しも大分和らいだ頃。
久しぶりに外に出てみようかと思った渉は、畑仕事をする香絵に一声掛けて、家を出た。
しばらく道を進んでいると、あの屋敷の前に辿り着く。
鉄格子のように頑丈な扉は、まるで渉を拒絶するかのように立っている。門の高さは二mはあるだろうか。今の渉の身長では、押す事も引く事も出来ないだろう。
渉は中を覗く為に、門に手を掛けた。
「……!?」
すると、力を入れた筈はないのに、門は勝手に開き始める。
(開いちゃった……どうしよう……?)
だが、屋敷内に入った途端、渉の不安は消し飛ぶ事になる。
「わぁ……!」
そこには大輪の花々が、花壇いっぱいに咲いていたのだ。
「……すごい……綺麗」
渉は感嘆の声を漏らし、その場に座り込む。
「喜んでもらえて光栄です」
「!?」
が、返ってくる筈のない答えに驚き、振り向きざまに立ち上がった。
「どうかなされましたか?」
「え……あの」
やんわりと笑みを浮かべて尋ねてきたのは、黒髪に白髪混じりの背の高い老人だった。
「すいません! その……勝手に入っちゃって……」
怒られるのを覚悟で謝った渉に、だが返ってきたのは柔らかな微笑みだった。
「構いませんよ。よろしかったらお上がり下さい。外は暑いでしょう? 冷たいお飲み物でもお出しますから」
「え? そんな……気を使わないで下さい。俺は……」
「いえ。実は、坊ちゃまに貴方様をお連れするように言われたのです」
慌てて誘いを断った渉は、彼が口にした言葉に、一瞬、動きを止めた。
「私はこの屋敷の執事で、小野坂(おのざか)と申します」
「あ、俺は雨宮渉っていいます」
「では、雨宮様。どうぞこちらへ」
「あ……はい」
(もしかしたら、あの子かもしれない……)
ほんの一瞬だけしか顔を見ていない、窓辺の子供。
会える、という期待感をつのらせながら、渉は屋敷の中に入っていった。
2、少年との出会い
「うわぁ……すごい」
壁に掛けられた絵画や、所々にあるランプに見惚れつつ、執事の案内通り奥へ進んでいた渉は、改めてこの屋敷の大きさに驚いた。
「ここが建てられたのは五十年前です。英国に仕事に出ていらした坊ちゃまのおじい様が、日本に戻って来た際に建てられました」
「五十年!?」
「ええ。私はその時雇われ、執事になりました。それからずっとここで働いております」
「へぇ……凄いんですね」
「いいえ。そんな事はございません」
そして、二年前に『坊ちゃま』の父親が病気で亡くなり、今は彼が第三代目当主だという事も話してくれた。
「他には誰もいないんですか?」
渉は、ふと気になった事を問い掛けた。
さっきから歩いていても、綺麗に磨かれた廊下に響くのは、二人の足音だけ。
小野坂はゆっくり首を振り、
「おりません。私達だけです」
「でも、だったら料理とか掃除は誰がやってるんですか?」
床も壁もピカピカで、毎日、誰かが掃除しない限りここまで綺麗になりはしない筈だ。
その質問に、彼は顔だけ振り返り、
「一週間に一度、何人かのハウスキーパーを呼んでいます。料理は二人分だけなので私が作るのですよ。買出しも私がします」
「小野坂さんが?」
「はい。……ああ、こちらです」
苦笑をもらして渉の問い掛けに答えた小野坂は、一つの扉の前に立ち止まった。
コンコン。
「開いてるよ」
暫くして、ノックの音に答えるように奥から微かに声が聞こえた。
「では失礼します」
恭しく礼をして扉を開けた執事に続いて、渉も部屋の中へと足を踏み入れた。
「お連れしました。坊ちゃま」
「うん。ありがとう、小野坂」
少女のような高い声。
「さぁ、どうぞ中に」
促され、ようやく『彼』との面会を果たす。
そこに立って自分を迎えてくれたのは、西洋人形のような白い肌を持つ少年だった。
(わ……綺麗な子)
口には出さずに感嘆の溜息をもらすと、少年はにっこりと笑った。
「こんにちは」
「え……? あ、こんにちは」
今まで、こんな子に渉は会った事がない為、緊張で体が石のように固まってしまった。
「では、私はお茶とケーキをお持ちします。お座りになってお待ち下さい。雨宮様」
再び、礼をして小野坂は部屋を出ていく。
「どうしたの? 座って?」
「あ、うん」
呆然と突っ立っている渉にそう声をかけて、少年は二人掛け用のソファに腰を下ろした。
それに習い、渉も反対側のソファに座る。
「急な事でびっくりしてるでしょ?」
「え?……あ、うん」
「緊張しなくてもいいのに」
「けど……」
くすくすと、女の子のような笑い方をし、少年は言った。