ひつじ色のセーター
お互い忙しくて、と誤魔化す私に、先輩は頷いて、
「そう、それなら、聞いてないだろうね。僕たち、別れたんだ」
「え・・・?」
先輩が言うには、先に就職した先輩と、学生だった彼女とで、生活リズムが合わなくなったそうだ。
休日も仕事で潰れたり、疲れて出かける気になれなかった先輩に、彼女が不満を持ち、最後は彼女のほうから別れを切り出したという。
「仕方ない・・・とはいえ、僕も、まだ社会人になったばっかりで、あの子を思いやる余裕がなかったんだよねえ」
寂しそうに、先輩は呟いた。
「あ・・・ご、ごめんなさい。変なこと聞いてしまって・・・」
「ああ、いいよ。ただ、君はあの子の親友だったから、聞いてるかと思って」
親友。
その言葉に、胸が痛んだ。
別れ際、先輩と携帯番号とメールアドレスを交換する。
「また遊んでね」
そう言って、先輩は一足先に帰って行った。
駅までの道を、私と彼は黙って歩く。
改札で別れる時、彼が聞いた。
「もう、過去のことか?」
私は、答えなかった。
夜、先輩からメールが来た。
今日のお礼と、また遊びに行こうというお誘い。
『できたら、二人で』
返信する手が、震えた。
それから、先輩とは毎週のように会った。
食事をしたり、映画を見たり、遊園地に行ったり。
毎晩、電話をして、何度もメールを交換して。
「彼氏できたの?」
職場の同僚に聞かれて、私は驚いてコピー用紙を取り落とした。
「え?あの・・・」
「あ、やっぱ、そうなんだー」
「ち、違うって!そんなんじゃ・・・」
「何かねー、最近、雰囲気違うもんねー。何かこう、幸せオーラが出てる?みたいな?」
同僚は笑いながら、手を振る。
「ほんとに、ちが」
「いーじゃないの。若いんだし。今のうちにいっぱい遊んどかなきゃー」
違うよ、と口の中で呟いたけれど、向こうは聞いていないようだった。
その時、ふとカレンダーが目に入った。
私の視線に気づいたのか、同僚も同じようにカレンダーを見て、
「何?彼氏の誕生日近いの?いつ?いつ?」
「え?・・・まだ、先だけど」
「ふーん。やっぱり彼氏なんだ」
「え?・・・あっ、ちがっ!違うから!!」
「いやーん、あやかりたーい」
思い浮かんだのは、あの日、先輩が巻いていたマフラー。
淡い水色は、よく似合っていたけれど。
彼と偶然会ったのは、仕事帰りに立ち寄ったデパート。
目当ての物を手に入れた私に、声をかける人物が。
「よう、元気そうだな」
「え?あ、久し振りだねえ。元気だった?」
「まあまあだな」
「先輩とは、上手くいってるか?」
そう聞かれて、私は思わず照れてしまった。
「う・・・うん。まあまあ」
「そうか。それは良かった」
彼は、私が手に下げた袋を見る。
「あ、これ?さっき、向こうの手芸屋でね。セーター、編もうかと思って」
私は、袋から、生成りの毛糸を取り出してみせた。
「先輩に?」
「うん。へへっ」
照れ笑いする私に、彼は頷くと、
「今度は、ちゃんと気をつけろよ」
セーターが半分以上編みあがった頃、携帯電話にメールが届いた。
どこか見覚えのあるアドレスに首をひねり、内容を見てみると。
彼女からだった。
あの日以来、彼女とは言葉を交わさないまま卒業し、音信不通になっていたのだけれど。
喫茶店の窓際に座っている彼女は、随分大人びて見えた。
私に気が付き、ぎこちなく手を挙げる。
「久し振り・・・ね。元気・・・?」
「うん」
私が座ると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
アイスティーを頼み、向かいに座る彼女を見る。
「そっちも、元気そうだね」
「うん・・・まあ、仕事は忙しいけどね」
彼女は、せわしなく視線を移動させると、小ぶりのバックから煙草とライターを取り出した。
「いい?」
「あ・・・どうぞ」
煙草に火をつけ、深々と吸い込む。ゆっくりと吐き出した煙が、私にかからないよう、顔を横に向けた。
「煙草、吸うんだ」
「うん」
彼女は、ブラックコーヒーを一口すすると、
「先輩と付き合ってるの?」
「え?・・・うん」
私は、ゆっくりと頷く。
「あのね・・・あの・・・」
唇を噛んだ後、彼女は言葉を続けた。
「あの人から・・・先輩から、言われたの。やり直したいって」
「・・・え?」
乱暴に煙草を揉み消す彼女。
続く言葉は、殆ど頭に入らなかった。
分かったのは、先輩は、私ではなく、彼女を選んだということ。
途中から、彼女は泣いていた。
あの時のことを、謝りながら。
気がつけば、私は、いつかの彼女の言葉を繰り返していた。
「仕方ないよ。人を好きになるのに、理屈なんてないから」
その夜、私はセーターをほどいた。
ひつじ色のセーターは、するするとほどけて、一本の毛糸に戻っていく。
ほどきながら、目から涙があふれてきた。
泣きながら、セーターを毛糸玉に戻していたら、携帯電話に着信が入る。
画面には、彼の名前。
彼の声が、耳に入ってきた。
「聞いた。大丈夫か?」
「・・・大丈夫じゃない」
ぐしゃぐしゃに泣いて。泣いて泣いて泣いて。
彼に諭され、ベッドに潜り込んだ時も、携帯電話を離さなかった。
「このまま、寝ちゃうかも」
「いいぜ。子守唄歌ってやる」
そして聞こえてきた、調子外れの歌に、私は思わず吹き出してしまう。
「何それ?うなされそう」
「贅沢言うな」
私は、携帯電話を耳に押しあてながら、枕に頭を乗せた。
「ごめん!これ、コピー!」
「はいよー!」
私は、走りながら、同僚の原稿を受け取る。
タッチの差で他の社員を押しのけ、コピー機の蓋を開けた。
「ねえ、例の彼氏とは、その後どうなってるの?」
別の同僚の言葉に、私はコピー機の操作をしながら、
「別れた」
簡潔に答える。
「えっ?あ、そうなの?ごめん、私、てっきり・・・」
動揺する相手に、私は笑顔を向けて、
「いいの。もう過去のことだから」
改札前で、所在無げに立っている彼を見つけ、私は手を振った。
「ごめーん!!遅れた!!」
「おう」
彼は、手を上げて応える。
「忙しそうだな」
彼の言葉に、私は乱れた髪を撫でつけながら、
「うーん。まあまあ。今日は課長のせいなの!課長ったらね」
「あー、そりゃ大変だな」
歩き出す彼の後を、私は慌ててついて行った。
ほろ酔い加減で駅につくと、アナウンスが電車の到着を告げている。
「あっ!電車来ちゃった!!」
「走れば間に合うぞ!!」
彼が、ぐいっと私の手を引いて、駆け出した。
改札を慌てて走りぬけ、人混みをすり抜けるように駆けて行く。
彼の右手の中に、私の左手がある。
階段を降りかけた時、ホームに電車が滑り込んできた。
駆け込み乗車を注意する放送。
彼が、振り返らずに電車に駆け寄ったとき。
思わず、足を止めた。
彼は、体勢を崩しながら、何とか立ち止まる。
発車のベルが鳴り、目の前で電車の扉が閉まった。
滑るように出て行く電車を見送った後、彼が振り返る。
訝しげな視線に、私はうつむいて、彼の手を握った。
彼が、手を握り返してくる。