楽園
誰よりも美しい実を実らせたい。永遠の命がほしい。この楽園で一番美しいものになりたい。そんな思いは日に日に私の胸を焦がしていく。わたしの思いが実に通じたのか、次第に実の成長が早くなっていった。大きくなり、赤色に染まっていくリンゴをみて私はほくそ笑む。これなら、誰よりも美しい実になりそうだ。私の努力は報われたのだと、喜びもした。 けれど、喜びは長くは続かなかった。成長はリンゴが熟した後も続き止まらなかった。そして、突然ひとつのリンゴの木の実がぼたりと落ちてしまったのだ。赤黒く色づいたリンゴの実はとても甘い香りを放って、木になっているほかのどのリンゴよりもおいしそうに見えたけれど、私は得体の知れない恐怖を覚えてリンゴを木の根元近くに掘った穴に埋めてしまった。そして、あのリンゴの実のことは忘れようと努めた。 ある日、いつものようにリンゴの木の世話をしようと木の所に行くと、そこになにやら長い生き物が木に絡み付いていた。私は、その生き物を確認しようと、そっと音を立てずに近づき、物陰に隠れた。あんな生き物は楽園で今まで見たことがなかった。緑色の長い胴を持ったその生き物は、霊峰に住む龍に似ている気もしたが、手足もなければ爪もない。体を覆う鱗はしめっているのか、怪しく光っていた。私は、この生き物を表現できる言葉を知らなかった。知っている言葉で表現するならば、『美しくない生き物』なのだろうか。 「腐ったリンゴの匂いに誘われて来たら、こんなところに来てしまいました……」 その生き物は、ちろちろと赤い下を大きく裂けた口から出して独り言を言った。『腐ったリンゴ』その言葉に私は、忘れかけていたことを思い出す。あの実を埋めたはずの穴を見れば、そこはこの生き物が掘り返したのだろうか、ぽっかりと大きな穴ができている。穴の先は真っ暗で何も見えなかった。 「あなたはどこから来たの」 物陰から出て震える声で私は生き物に声をかけた。生き物は、私のほうを振り向くとうやうやしく頭をたれるようにして挨拶をした。 「こんにちは、蝶のお嬢さん。わたくしは蛇。この実の匂いに誘われて、穴を掘り進めて いたところ、この楽園に来てしまったのですよ」 蛇は、しっぽの先で地面を指し示す。そこには、私が埋めたリンゴの実が、あの時とかわ らないまま地面に転がっていた。 「ここは良いところですね。私のいたところと違い、醜いものがまったくない所だ」 蛇は目を細めて楽園を眺めながら言う。 「しかし、美しいものしかいないから、それぞれの本当の美が薄れているようにも思える のです。そう、たとえば貴方の美とか……」 「貴方は何が言いたいの?」 急に蛇が怖くなって、私は蛇から離れるようにして後ずさりをした。蛇は、何を考えているのかわからない表情で、私を見つめている。その目に見つめられると、まるで私が今まで心の中で抱えてきたものが、すべて蛇に見られているような気がして、気分が悪くなった。 「貴方は何がしたいの?」 私の問いに、蛇は迎えに来たのだと答えた。こんな楽園で私の美を埋もれさすにはもったいないのだと。自分の世界に来れば、私は一番美しい存在になれるのだと。 楽園を出たことなど、一度もない。出た先にはいったい何が待ち受けているのだろうか。本当に出て行ってしまってもいいのだろうか。そんな不安はあったが、誰よりも美しくなれる。私は蛇の言葉に心が揺らぐのを覚えた。楽園に生まれたのだから、確かに私は美しい存在だ。けれど、私よりも美しい生き物はたくさんいた。虹色の羽を持った姉などがそうだ。こうして、ここでリンゴの木を育てていたって、私の羽が変わったりするはずもない。 「本当に、一番美しい存在になれるの……?」 「ええ、もちろん。私たちは醜い存在。醜い私たちの誰が、美しい貴方に勝てるというのでしょうか」 蛇に誘われるようにして、私は黒い穴の中へ進んでいく。穴は、私一人がようやく通れる程度の大きさで、奥に進むに連れてどんどん狭くなっているようだった。通り抜けるには、私の背中についている羽が邪魔だった。どうせ、あまり美しくない羽だ。蛇の世界で一番美しくなれる私には、ふさわしくないものだ。私はそう考えて、羽をすべてむしりとった。後悔はしなかった。むしろ、今まで悩みの種だったものが消えてくれて、すがすがしい気持ちだった。
***
楽園を捨て、羽を捨て、蝶だった生き物は蛇の言葉に誘われるまま、醜い生き物しかいない世界へと降り立った。その後、彼女がどうなってしまったのかは誰も知らない。醜い生き物の世界を見ようなどと、思いもしないからだ。彼女が世話をしていたリンゴの木は、枯れてしまった。小ぶりであっても、青くとも、彼女が精一杯心を込めて実らせたリンゴの実を、楽園の主は食べて見たいと思っていたのに。もう二度とそれが食べられないのだと思うと、楽園の主はほんの少しだけそれをさびしく思った。ただ、それだけだった。