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Pure Love ~君しか見えない~

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22、裏腹




 その日、幸が穏やかな表情を見せたことを見届けると、和人は学校へと向かっていった。だが通学中も授業中も、幸の顔が頭から離れることはなかった。
 いつの間にか封印してきた幸への想い。恋ではないと自分に言い聞かせた想い。今、授業も何もなく、たった一人でいたならば、心を制御できないほどの想いが溢れ出してくるだろう。和人は身構えるように身体を強ばらせると、幸のことを出来るだけ考えないようにしようとしていた。だが、そう思えば思うほど、思い出されるのは幸の姿だけだった。

 和人が去った後、幸はその場から動かず、久しぶりの自分の部屋の匂いを嗅いでいた。家具の配置はそのままなので、目が見えなくてもある程度わかる。幸は目が見えなくなってから今まで避けていたピアノに向かうと、右手を鍵盤の上に置いた。
 躊躇いながらも、単音を奏でる。聞き慣れたピアノの音だった。もはや吸い込まれるように、幸は目を瞑ったまま、両手で鍵盤を押さえた。何度も音を外しながらも、次第に曲になってゆく。身体に染みついたように奏でる音楽、動く指先。幸は嬉しさに、涙を流していた。

 その頃、祥子は和人がアルバイトをしている出版社に顔を出していた。そこは祥子も世話になっている出版社で、気さくな社員が大勢いる。
「あれ、祥子ちゃん。どうしたの?」
 オフィスに入るなり祥子に声をかけたのは、社員の橋野順次郎だ。彼は祥子が駆け出しの頃から世話になっている人で、祥子の担当もしてくれている古い付き合いの男性である。また和人のよき先輩でもあるようだ。
「あ、橋野さん。いえ、最近顔出してなかったんで、挨拶周りを……」
「ふうん。それにしては、ずいぶん嬉しそうじゃない?」
 隠そうとしながらも自然と笑みが零れる祥子を見て、橋野が言う。
「あはは。さすが橋野さん」
「なに、水上と結婚でもすんの?」
 橋野の言葉に、祥子は驚いた顔をする。
「な、なに言ってんですか! 彼はまだ学生で……」
「婚約ならいいじゃん。早いとこそういうのやっておかないと、あいつはどこ行くかわかんないんじゃないの?」
「……どういう意味ですか?」
 意地悪気にそう言う橋野に、身構えて祥子が尋ねる。
「ほら、君だって心配してるんだろ? “幼馴染みのさっちゃん”」
 その言葉に、祥子は口を結ぶ。幸の存在は社内でも有名だ。というより、和人を知る人物は皆知っていても過言ではないかもしれない。それほどまでに、和人の出す話題は幸のことが多かった。
「い、意地が悪いですよ、橋野さん。気にしないようにしてるのに……」
「あはは、冗談だよ。まあ、あいつは押しが弱いから、さっちゃんとどうなることもないだろうよ。それより、水上のことじゃないとなると、なんだい?」
 自分から振っておいて、橋野が話題を変えて言った。祥子もそれに頷く。
「ああ……あの、違う出版社で申し訳ないんですけど、NAK出版からオファーがかかりまして……」
「ほう。社内で他の出版社の依頼を自慢するとは、いい度胸じゃないの」
「いやあ、ごめんなさい!」
 失礼とわかりながらも祥子が言ったのは、嬉しさに他ならないが、相手が橋野だからというのもある。
「まあいいよ、相手は大手だ。君も憧れの出版社なんでしょ?」
 橋野の言葉に、祥子は思わず微笑む。新しく仕事の依頼がきたというその出版社は、祥子がいつか世話になりたいと思っていた、今までとは違う大手の出版社である。
「ごめんなさい!」
「いいって、いいって。君とは駆け出しの頃からの付き合いじゃない。じゃあ、これから一杯飲みに行こうか。奢るからさ」
「あ、ごめんなさい。今日は彼のところに行こうと思ってて……」
「あっそう。いいよ、いいよ」
 申し訳なさそうな祥子に、いじけたように橋野が言う。しかし、すぐに笑って互いに見合った。
「ごめんなさい。また今度、飲みに連れて行ってください。失礼します」
 祥子は時計を見ると、逃げるように出版社を出て行った。残された橋野は、苦笑して仕事に戻った。

 授業を終えた和人は、夢遊病者のようにふらふらと校舎を出て行った。まるで機械のように、真っ直ぐに家路へと向かう。そんな和人は、門のところで声をかけられてハッとした。目の前には祥子がいる。
「大丈夫?」
 驚いている和人に、祥子が言った。祥子の顔を見て、和人は途端にいつもの笑顔に戻った。
『びっくりした……どうしたの? ずっと待ってたの?』
「ううん、さっき来たところ。そろそろ終わるかと思って。今、メールしようと思ってたところなの」
『そう。すれ違いにならなくてよかった』
 二人は自然に歩き出す。
「そうね。それより、本当に大丈夫? なんかさっき、暗い顔して歩いてたわよ。具合でも悪い?」
『そんなことはないよ……大丈夫。それより、そっちはどうしたの?』
 急に訪ねてきた祥子に、今度は和人が尋ねた。
「ああ、私? 打ち合わせの帰りなの。和人との絵本のおかげもあって、新しい仕事が舞い込んできたんだ。ずっと仕事したいと思ってた出版社だから嬉しくて」
『そう、おめでとう。よかったね』
 和人の言葉に、祥子は嬉しそうに笑う。
「ありがとう。じゃあ前祝いに、夕飯一緒に食べない? 奢るわ」
『いいけど、前祝いなら僕が奢らなきゃ』
「いいわよ。学生さんに奢らせられますか。焼肉でも行かない? お互い、スタミナつけなくちゃ」
 祥子の誘いに和人は頷いて、二人はそのまま歩いていった。

 店内で食事をしながら、祥子はそわそわと和人を見つめた。和人は首を傾げて、祥子の顔を覗き込む。
『……なに?』
 和人が尋ねた。
「ううん。最近、ちょっと有名になってきちゃったから、二人でゆっくり食事も出来なかったじゃない? だから嬉しくて……しみじみしちゃった」
 二人は笑った。祥子はその途端、真剣な表情に戻った。和人は真顔になった祥子に、また首を傾げる。
『どうしたの? 何か悩みことでも?』
「う、ううん。そんなんじゃないけど。ちょっと、実家のほうでいろいろあって……」
『……どんなこと?』
「あ、うん。結婚はまだかって……」
 思わぬ話題に、和人は少し驚いた。
『……結婚?』
「うん。まあ、今に始まったことじゃないの。前々からしつこく言われてて……それで、とうとうお見合いの話まで持ち上がっちゃってね」
『……するの? お見合い』
 驚きながら、和人が尋ねる。
「まさか。私には和人もいるし。恋人がいるからって言ったんだけど、じゃあその人との結婚はまだかなんて言われちゃって……」
 話の途切れた祥子に、和人も目を泳がせていた。結婚を意識してこなかったわけではない。だが和人は事実上まだ学生であり、早い話とも思った。
「でも、和人はまだ学生じゃない? だからね、その……婚約じゃないけど、してくれたら……うるさい両親も黙るっていうか……」
 しどろもどろながらも、明らかに祥子からのプロポーズであった。
 いつもはキャリアウーマンのように隙のない身のこなしをする祥子が、今は真っ赤な顔をして不安と照れで複雑な表情をしている。
 和人は女性からプロポーズをさせたことに申し訳なく思いながらも、幸のことを思い出していた。そしてゆっくりと、手を動かす。