永訣の夜に
前篇
もう、いやだ。終わりにしよう。ここですべて、終わりにしよう――。
* * * * * * * * * *
ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。月明かりが眩しいほどに輝く夜、小高い丘の上にあるマンション群の団地が、不気味に浮かび上がる。その団地の非常階段をたった一人、孤独な少女が、一歩一歩、上っていく。
中学生くらいだろうか。まだあどけなさが残る少女の顔は、険しかった。だが決意に満ちた表情で、淡々と階段を上っていく。
そんな少女の脳裏で、走馬灯のように人々の声がフラッシュバックする。
「うざいんだよ」
「無視しようぜ、無視」
「いじめ? 自意識過剰じゃないの?」
「ちゃんと、学校行きなさい」
「死ね!」
突然、少女は立ち止まり、耳を塞いだ。ドクドクと、心臓が異常なまでの音をさせる。
「……」
少女は意を決すると、また階段を上り始めた。
丘の上のマンション団地は、小さな町の象徴で、町の一番高い所に聳えている。十三階建てのその建物は、不気味なまでに静けさを見せていた。
十三階を越えて、屋上に差しかかろうというところで、少女はハッとした。
「……!」
少年がいた。屋上へ通じる鉄格子のドアは、事故防止の為に固く閉ざされている。そのドアの前に、一人の少年が、花束を抱えて立っていた。
少女は凍りついた。先客がいるとは思わなかったのだ。少年もただ黙って、少女を見据えている。
やがて少年は、持っていた花束を解き、その場から外へと投げ落とした。白い花びらをつけた花が、地面へ向かって落ちてゆく。風に煽られ、広がり落ちる。少女はそれを、ただ黙って見ていることしか出来なかった。
「……君も死ぬ気なの?」
すると、少年がそう言った。少女は静かに頷いた。
「やめた方がいい」
少年の言葉に、少女は俯いた。静かな拒否が、少女から感じられる。
「死んだら駄目だ。君に死ぬ権利なんかない」
続けて言った少年に、少女は口を結び、静かに少年を睨んだ。
「あるわ」
少女が言った。
「ない」
少年が、きっぱりと否定する。
「あるわ!」
今度は少女が、怒鳴るように言う。
「ある! 死ぬ権利はあるわよ。私の命は、私のものだもん!」
少女の叫びに似た声が、風とともに非常階段へと反響する。少年も少し睨むように少女を見つめ、少女の腕を掴んだ。
「ないよ」
少年が言った。真剣な眼差しだが、顔色は冷めている。少年は言葉を続けた。
「未成年で、ましてや義務教育が終わってない君の命は、君の保護者のものだ。君は生きなくちゃならない。生きる権利は与えられていても、死ぬ権利はない」
その言葉に、少女は少年の手を振り払った。涙が出そうだった。そのまま少女は少年を見つめる。服装からして、高校生か大学生くらいだろうか。
「なんなの? あんた……」
少女の問いかけに、少年は苦笑するだけだ。
「あんたは、こんな場所へ何の用なのよ?」
苛立つように、少女が尋ねた。この少年さえいなければ、躊躇うことなくここから飛び降り、死ねるはずだった。それを邪魔され、少女はやり場のない怒りを少年にぶつける。
「命日なんだ。僕の……友達の」
やがて少年がそう言った。少年は少女を見つめる。
雲の多い静かな月明かりが、少年を逆光に照らし出す。少女から見える少年の顔は真っ黒になり、その姿の輪郭だけが浮き彫りになった。少女はこの状況が、少し怖くなった。
「ここで人が死んだ。ちょうど三年前に、この場所から……」
少女はゾクッとした。まるで少年は、生きている人間とは思えなかった。薄暗さに血の気は見えず、静かで穏やかな口調は、吹き抜ける風とともに冷たく響く。
「……僕は、その子の幼馴染みだった」
少年が、静かにそう言った。
「ずっと一緒だった。喧嘩しても何しても、双子同然にずっと一緒だった。それなのに……」
そう言うと、少年は階段から外へと身を乗り出した。遥か離れた地面は真っ暗だ。誰もいない中庭のコンクリートの歩道が、微かに月明かりに照らされている。
少女も地面を見つめた。随分高い。ここから飛び降りれば、間違いなく死ねるだろう。明かりもない中庭には、人の気配もない。
そしてそのまま、少女も外へと身を乗り出した。強い風が吹き抜ける。その風に煽られて落ちるのも良い気がした。
「私はずっといじめられてた……勉強もスポーツも人並み程度で、動きもトロくて、うざいって……」
やがて少女はそう言うと、空を見上げた。雲が多いが、月明かりだけは相変わらず、恐ろしいほどに光っている。
何も言わない少年に、少女は言葉を続けた。
「友達がいないわけじゃなかった。身近な人には軽く相談してみた。だけど本当は、家族と本音を話し合える関係もない。先生も上辺だけで、結局何もしてくれなかった……」
「……だから、死ぬ気でここに来たの?」
少年の問いかけに、少女は頷いた。
「死ねば楽になれるとでも思ってるの? 家族や友達が悲しむとは思わないの?」
また少年が尋ねる。少女もまた頷いた。
「少なくとも、今よりはきっと楽になれる。誰にもいじめられたり、蔑まれたり疎まれたりしない。それに……こんな狂った世の中で、生きる意味なんかないよ」
その時、ものすごい爆音が轟いた。見るとジェット機が上空を通り過ぎてゆく。
「……どうせ死ぬなら、復讐してから死ねばいいのに……」
静かに少年が言った。少女は少年を見つめる。
「いじめたやつらを殺せばいいじゃん。家族と殴り合ってまで話し合えばいいじゃん。学校に火でもつければいいじゃん。国会議事堂に突っ込めばいいじゃん。どうして自分だけ死ぬことを考えるんだよ!」
初めて少年の顔が歪んで見えた。少女は首を振った。
「そんなこと……出来るわけない。私が死ねば、それでいいじゃない!」
「……そんなことじゃ、いじめたやつらの思うツボじゃん」
少年はそう言うと、階段に腰を下ろした。少女はそのまま月を見つめる。
「でも……それでも、少なくとも傷は残していけると思う……」
やっとの思いで少女が言った。そして言葉を続ける。
「いじめた子が、私を殺したって思ってくれればそれでいい。大人だって、私をどうすることも出来ずに殺したって、そう思えばそれでいい。次の私が出ないような社会になればいい……」
「……ならねえよ」
少女の言葉に、少年が突き返して言う。
「君が死んでも、いじめたやつらは明日には違うやつをいじめるだろう。大人だって結局何も認めたくなくて、何も出来ないんだ。君が死んでも、何もならない」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!」
少女が叫んだ。涙が止め処なく溢れてくる。
「もう生きたくない……希望なんて、なんにも見えない……」
そう言った少女に、少年は立ち上がると、もう一度遠い地面を見つめた。
「僕の友達が死んだ時、きちんとした遺書は見つからなくて、原因不明の突発的な自殺として判断された。僕らが、いじめがあったと証言しても、証拠不十分で結局それは反映されなかった。僕も死にたくなった。心が押し潰されそうだった。だから僕も、ここから飛び降りようと思った」
少年の言葉に、少女は少年を見つめた。思わず少年の腕を掴む。