乾燥夫のはなし
「はい。コウダ様は洗濯夫にはお会いになっていらっしゃらないのですか? いえ、私も会ったことはないのですが、上のどこかに、洗濯夫のアオヤマがいたはずですが」
「会ったことがない?」
コウダは見ているこちらが哀れになる程の頼りない視線をスガノに向け、両手を組んだりほどいたり始めた。
「そ、それは、どういうこと? 私の……その、洗濯物は、君たち以外の第三者が運んでいるってこと? 困るよ、そんなの。け、契約違反じゃないか」
「いえ、上から落とされますので」
「オトス?」
「はい」
「え、それは……こう、上から下に?」
「コウダ様は我々にお預かりものを下から上に落とせというのですか? それはいくらなんでも無理な相談というものです。我々は地球上にいくつか存在する、しがない洗濯会社ですから」
「え、いや、せ、責めた訳じゃないんだ。重力は、難しいからね」
「ご安心下さい。洗濯物は全てパックされて落とされますので、汚れたり破損したりすることはまずありません」
スガノはにこにことそこで言葉を切った。
くるりとコウダに背を向けると、すたすたと十一番乾燥機に向かい、完了のアラームが鳴り始めると同時に勢いよく扉を開いた。
アラームは直ぐに止まり、ほっくりとした熱風がスガノの頬を撫でた。
スガノはじっくり十秒待ってから中に入っていた洗濯物を引っ張り出し、エプロンのポケットから小さなアイロンを取り出した。
よろよろと後を追いかけてきたコウダが、長身のスガノの後ろから乾燥機を覗き込んだ。
「な、何だ。しわくちゃじゃないか!」
「はい。これから私がアイロンをかけますので。熱いですから、少々、お下がり頂けます?」
と、言うなりスガノは開けてあった乾燥機の扉を左へ九十度回転させた。これが台座である。
スーツの肩のかたちを慎重に整え、アイロンをさらさらとかけ始めた。こういうことはなるべくすぐにやらなければならない。
手際よくしわを消していくスガノの細長い腕を見つめながら、コウダは彼にしては興奮したように、しかし健康な人間からすれば苦しそうに歓声を上げた。
「す、すごいすごい! きれいじゃないか」
「はい。アイロンとは、そういうものですから。はい、これで最後です。立派なトラですね。コウダ様、あちらでお待ちになっていてください。必要書類にご記入頂きたいので」
スガノはにっこりとアイロンを構えたまま促した。
『狐生田 正助』
と、コウダはスガノが渡した領収証と洗濯物受取証に記入した。
なかなかの達筆であった。通信教材で学んだならその詳細を教授願いたいとスガノが思ったほどである。
声に出さずに、
『コウダ ショウスケ』
と読むと、コウダはその上のフリガナ部分に、
『コウダ マサスケ』
と書き込んだ。
「はい。それではたしかに。コウダ様、中をお確かめ下さい」
コウダは水色のビニールパックに詰められた洗濯物を一つ一つ確認した。
最後に一際大きなパックに入ったトラの毛皮をじっくりと見定めると、初めてにんまりと唇を上げた。細く鋭い目元に、千切り大根のような笑いじわが何本も走った。
「た、確かに。これ、お代ね」
コウダは胸ポケットから革の財布を取り出すと、領収証に記載されていた四万八千とび四十円を机の上に置いた。
その間にスガノは常備されている袋の中で一番大きなものを選び、重いものから順に詰めていった。
トラはあきらかに一番大きく、一番重たかったが、これはきっと別にしたほうがいいだろうと考え、パックをさらにビニールで包み、紙袋に入れるという過剰包装までした。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
「う、うん。頼むよ。そ……それからこれ、君に、その……そうチップ代わりだ。取っておいて欲しい」
コウダは財布からもう一枚一万円札を抜き出すと、スガノのエプロンのポケットに突っ込んだ。
スガノは突然のことに一瞬凝視したが、すぐに笑顔で一礼した。
それを見たコウダはほっとしたように頬を弛めると、細い身体に抱きかかえるようにして袋を持ち、足早に地下室を出ていった。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
■
それから数日、大きな仕事が入ることもなく、スガノは帝国ホテルの高級シーツだとか一般的な女性の下着だとか、差し障りのないものを順当に乾燥機に放り込んだ。
アオヤマからは相変わらず天気予報より正確に、三回に一回の割合でメールが届いた。
いちいち客の顔を覚えないので、あの痩せた小心者のコウダのことも消えかけていた頃、帰宅途中のスガノは駅前で街頭演説をしている妙な男に目を留めた。
その男、トラの毛皮を前足で首にくくりつけ、マントのように身体を包んでいるのだ。頭などはまるでトラに囓られているような様である。
不思議なことに、誰一人として彼の異容に注意を払う様子もなく、足を止めて演説を聴きいっている。
ぼんやりとその様を眺めていたスガノに、大学生くらいの男が、笑顔で選挙チラシを手渡してきた。
普段は無視するチラシを、スガノは反射的に受け取る。
チラシには、やはりスガノの目にはトラの毛皮を被った男が感じのよいスマイルを浮かべているように見える写真が大きく印刷され、その下に緑色のゴシック文字で『こうだ 正助』と書かれていた。
スガノは熱弁を振るうコウダにもう一度目を向けた。
いまこそ、下へ下へと落とされてきた汚れものを、上へ返し、その責任の所在を問おうではないか。諸君。この国を洗濯、ウォッシュする道は厳しい――難しい――
確かに、あの鋭い目はそこにあったが、宿る光があの時とは比べものにならなかった。
彼の後ろの選挙カーには二枚の染みしわ一つない国旗が下がり、車上から黄緑色の可愛らしいスーツを着た女たちが手を振っていた。
スガノはふと、エプロンに入れたままになっている一万円札のことを思い出した。
デイパックからエプロンを取り出し、一万円札をつまみ出すと、そういうことか、と一人納得した。
コウダは自分にそういうことを期待したわけで、これをくれたのか。
「貴方は威を借るというわけですか。どうぞまたのご利用を、コウダ様」
コウダに向かって会釈をすると、彼の高らかな公言を背にスガノは歩き出した。