七変化遁走曲
跋
その庭は神の庭と呼ばれていた。
神様と言えど土地神ではなく、四季の巡りに合わせて行き来する夷神だった。その神は夏の始まりにその庭へやってきて、夏の終わりにまた自らの神殿に戻って行った。そうして幾年、その国の、その季節の平穏を見守っていた。それはそれは平坦で、普遍的で、完全な業だった。彼が変わらず夏を運ばなければ、この国の時の流れは忽ち狂ってしまう。
けれど、あるとき、神の庭に迷い込んだ者がいた。それは人間の娘だった。病で言葉を失い、目も見えず、それでも誰より美しく、誰より前を見据えた娘だった。夷神は娘を不憫に思った。ゆえに少女を追い払うことはせず、さらには娘に声と視力を与えた。そして暫く娘をこの庭で琴弾きとして留め置くことにした。
しかし年若い娘は、自分を救ってくれたものが神だとは思いもしなかった。ただ単に裕福な男の楽士として気紛れに迎え入れられたのだと、当たり前のように思った。だから当たり前のように、彼に恋をした。
神は困り果てた。自分を慕う娘を放り出すことも出来ず、自分の正体を明かすことも憚られた。何より、神自身が娘を好いてしまった。そうしているうちに、夏の終わりが来た。
秋になっても夏の神が立ち去らぬのを知り、四季大神は怒り、その国に雷雨を齎した。実りの秋は悉く腐っては不作となり、凍えるような冬が足早に訪れた。翌年になれど、春は一向に訪れなかった。やがて夏が近付き、凍えきった大地を見て夏の神はやっと己の身勝手さに気付いた。
やがて神は、決意をした。娘を閻浮へ返すことにした。全てを打ち明け、もう共に寄り添えぬことを教えた。けれどその話を聞き、娘は涙を流した。そうして詫びた。己のせいで人の世の摂理を曲げてしまっていたことを。そうして、愛する人の正体を知りながら、夢の中に生きることを選んだことを。――娘は気付いていたのだ。
夏の神は、夏が来る前にその土地を去った。そうしてそれ以来、彼は雨の季節にだけこの庭に戻ることを許された。けれど、娘の所在は分からなくなっていた。どこかで彼のことを待っていると耳にしながらも、何度雨の時期が来ても、二度と巡り会うことは出来なかった。
それでも、二人には唯一の救いがあった。それは文の遣り取りだった。姿は見えずとも、二人は毎年のように『言葉』を交わした。ある時は新風に乗せ、あるときは七変化の開花の雫に沿わせ。声は届かずとも、想いだけは届いた。
いつか、必ず、邂逅するその時まで。
それは、何百年経った今でも変わらなく続いているという。
『君恋池に纏わる伝承について』