七変化遁走曲
7/終章.空広く、君を探して
様々な店との取引が終わって、七月上旬の薊堂は随分身の回りが落ち着いたような気がした。長期休暇前のテストも無事終わり、このままいけば平穏な夏休みに突入できそうだ。
微睡さえ覚える土曜の午後。生き生きとモップがけに勤しむ常葉の事務机の片隅に、いつか見た藍色表紙の和綴じ本を見つけた。
「そういえば、これって結局なんだったの?」
アイスココアの入ったカップを片手に側を通りかかり、埃ひとつかかっていないその藍色を指差す。偶然すぐ近くに居た常葉があたしの視線を辿り、ああ、と溜息とも呼吸ともとれないぼんやりした相槌が返される。
「そうだった、深砂鷺に返しに行かないと」
「あたしが返しに行こうか?」
あからさまに面倒そうな気配を滲ませた返答を察して、進んで御使いを買って出るあたし。もともと読書家なわけではないけれど、祖父の仕事に憧れていた手前、古本には興味がある。それに、店の主人。紺屋永春さん。まだ数えるほどしか会ったことはないけれど。
なんだかとても気にかかる。前に妙なことを言われたせいかもしれない。
「いや、僕も行くよ」
散々渋った声色をしていたくせに、返ってきたのは予想外な答えだった。思わず見つめ返す。嫌そうな表情はそのままだった。
「ただ、蒲団だけ取り込んでいくから待っていてくれないかな」
午後から少し降りそうなんだ、言い訳のように付け加えた手前、モップを本棚の脇に立て掛けて事務室を出ていった。おそらくそのまま屋上に行くんだろう。あたしはというと、淹れたばかりのココアを冷たいうちに味わいたくてそのままソファに腰掛ける。
社長机の真横、窓辺に置いた特等席。開け放した窓から入り込む風が涼しい。
今日は久々の晴れ模様だった。懐かしい太陽はいつの間にか日差しがきつくなった気がした。
相変わらず深砂鷺の庭には四季折々の植物が顔を揃えていた。
百合に木槿、花菖蒲。白い花は夏椿というらしい。少しずつ移っていく季節に合わせて、花の顔ぶれもにぎやかになっていくのだろう。
今回もやはり庭を突っ切って深砂鷺の本邸に向かう。軒先には商い中の暖簾に看板。開け放した玄関にはやはりブザーは見当たらないので、少し声を張って主人を呼ぶ。今日は間を置かないうちに紺屋さんが顔を出した。
「おや、久々に揃ってのご来店かな」
琉璃青の浴衣姿はまさに夏も間近といった風情。けれどその手には、何故か包装紙とハサミが握られている。怪訝に思いながらも、あたしは丁寧に頭を下げる。
「こんにちは。先日はお世話になりました」
これには常葉が目敏く反応した。そういえば言ってなかったっけ。会ったのは偶然だったし少しの間だったので言い忘れてしまっていた。
「――先日?」
「そうよ。――学校帰りに偶然会ったんですよね」
後半は紺屋さんに同意を求めながら、まぁ、今言えば一緒かなと付け加える。
そうそうと頷く紺屋さんに対し、なんだか呆れ顔で彼を見るうちの常葉。あたしは二人の間に――というか、常葉の側に無言の不満を感じて、それをご主人の目に晒してしまわないよう一歩進み出た。
差し出したのは紙袋。その中身はさらに包装紙で包まれた紙の箱。
「これ、くず原の『あじさい』と『天の川』です」
わぁ、と迎え入れるように広げた両手が捕まえやすいよう、もう一歩前へ出る。わざわざすみませんと頭を下げられて、恐縮していえいえと首を振った。
「ちょうど水出しの緑茶を頂いたところで」
ここでやっと、彼の持っていた包みとハサミの意味を知る。どんなに頑丈な包装だったのかは分からないけれど、どうやら悪戦苦闘していたようだ。
「あ、じゃあ、あたし手伝います」
だから、あたしが進んで手を上げるのも最もな流れ。そうして何故か不機嫌な常葉を先にお茶の間に通してもらって、あたしは紺屋さんの後をついて台所へ向かった。