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七変化遁走曲

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 薄曇りの空は今にも雨粒が落ちてきそうで、庭先の紫陽花も相俟って梅雨のひと時を演出していた。
 西側の雲が暗い。これはいよいよ急いだ方が良さそうだ。山際まで来て傘の一本も持ってこなかったことを悔いるけれど遅い。それを察するように屋敷の主が困り顔で微笑する。

「追い出すようにして帰してごめんなさいね」
 彼女の佇む場所は初めてあたしたちがこの家を訪れた時に出迎えてくれた位置と同じで、まるで物語の始まりを読み返している、そんな感覚に陥った。
 睡蓮の花も、蛙の声も同じ。紫陽花の淡い色だけが時間の経過を再認識させてくれる。
 常葉が抱えている桐の箱。それはあたしたちが此処に持ってきたものとは別物だけれど、中に入っているものは良く似ている。乳白色の酒壷に、硝子時計、水差し。もしかしたら対に作られたものなのかもしれない。

「足りない分は後日送るわ」
「え、でも、報酬はこれで確かに戴きました」
「それでは私の気が済まないの。予定よりずっと振り回してしまったから」

 ゆるやかに、けれどきっぱりとした意思で振られる首。押し返される腕、少し遠いお互いの距離。陽花さんの纏う紅色花弁の着物が、曇り空に鮮やかに映える。
 淀んだ空を眺めたせいだろうか。また少し、彼女までの距離が開いた気がした。
「淋しくなるわね。また来年まで、元気でね、翠仙ちゃん」
 私もです、と頷き返す。半歩ほど後ろに立つ常葉が、そわそわとしている気配を感じながら。
「紫陽花が咲いたら遊びに来てくれるかしら」
「勿論です。その時は、オススメのケーキを買ってきますから」
 微笑んだ彼女の眩しさ。滲んでいる孤独の気配。なんとなくだけれど分かる。常葉が急ぎたがる理由と、陽花さんが急がせたい意味が。
 きっと会いに来たくても、またこの時期がやってくるまで陽花さんには会えない。少なくともこの屋敷では。また梅雨が来るまで、彼女は何をして過ごすのだろう。この屋敷を離れるのだろうか。

 一年は、彼女にとっては短いかもしれない。
 けれど、愛する人を待つだけの一年は、きっと途方もなく長い。

「翠仙、急がないと」
 ついに声を発した真後ろの助手に目をやって、彼女はあからさまに眉根を寄せて笑う。
「男の人はやっぱり薄情ね」
「生憎、僕は狐ですから」
 憮然とした面持ちと、生真面目な返答。あたしたちは揃ってくすくすと笑った。
「翠仙ちゃんも、常葉も。よい夏を過ごしますように」

 門の前まで来て、手を振る彼女の声が遠くなる。笑顔は遠ざかっても保たれたままだった。
 その哀しみに思い出した、募る苛々は一人の男に対するもの。
 池の辺で酒を嗜んでいたあの男。無関係なあたしの前には現れたくせに、肝心の彼女の前からは逃げたままのあの人。
 彼にも言い分はあるのかもしれないけど。でもやっぱり許せないのだ。同じ女性としては、彼女の肩を持つのも道理というものでしょう?
 もしまた夢に出てきたら言い聞かせてやると思っていたのに、その夜も次の日も、一週間経ってさえ出てくることはなかった。
 その間に、まるで梅雨の終わりを惜しむように振り続けた弱い雨。
 だからあたしは余計に、まるで自分のことのように憤慨する。

 逃げたのね!男の風上にも置けない奴!

作品名:七変化遁走曲 作家名:篠宮あさと