七変化遁走曲
翌日は土曜日。うちの学校は土曜授業が存在しないので、大人しく薊堂の事務室に篭っていた。
と言っても、あたしが陣取るのは窓際に引っ張っていったソファの上で、祖父が使っていた社長用執務机に身を置くことはは殆どない。ああ、たまーに学校で課題が出たりして来客で応接机が埋まっているときなどは借りたりしている。
今は必死に稲荷祝詞の暗誦中。狐は稲荷神の眷属だからとりわけ必要だ、っていうのがうちの助手の意見だけど、あたしの唱える祝詞そのものに充分な力があるとは信じがたい。
以前請け負った仕事も、常葉に助けてもらったから上手く言ったようなものだし。
夏休みに入ったら一度おじいちゃんの所に教わりに行こうかな。
「はい、薊堂です」
ルーズリーフに祝詞の読み方を書き取りながらぶつぶつやっていると、部屋の隅で電話が鳴った。ちなみにこの建物の中には各階に電話がひとつずつ。どれも黒電話ではないものの、受話器に彫り物の細工がしてあるようなクラシックな形だ。コードレスでないから移動して会話することはできないけど、電話番は常葉の仕事なので不便は感じない。
その常葉が歩み寄り、いつも通りに応答している。
「……今から、ですか?」
ええ、とか、はい、とか応えていた彼の声のトーンが途中で急に変化した。少し驚いたような少し呆れたような響きだ。気軽い雰囲気があるから、もしかしたら知り合いなのかもしれない。
「それは構いませんけど、こちらに来ることは出来ないんですか。手が離せない? ……ええ……はあ」
最後のは相槌というより、溜息に聞こえたのは気のせいじゃないと思う。
結局その後も何遍か遣り取りをして、分かりました、という返答とともに受話器を置いたのが聞こえた。
「どうかしたの? 依頼?」
欠伸をかみ殺し、書き損じの紙をくずかごに放りながら尋ねてみる。常葉はというと、うん、まぁ、とかいった調子でなんとも煮え切らない。それから幾許か思案をした後に、机の上のファイルをパタリと閉じる。
「とにかく、ちょっと出かけよう」
「何処に?」
彼の返答はとても簡潔だった。
「真裏」