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アタシによる彼の観察と恋愛想定と夏の原色の創造

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チリンと涼しげな音をたてて風鈴が鳴った。
夏の大きな雲がゆっくり、本当にゆっくりと動いていく。
洗ったばかりの顔を拭いながら、アタシはもうすぐ雨が降るのではないかとぼんやり思っていた。
大きな雲。それが入道雲と呼ばれるモノってこと位、幾ら無知なアタシでも知っている。
何よりもアタシはこの雲がとても好きだもの。
おおきくてもこもこしていて。彼の腕の中もこんな感じねと何時も思っている。
…まぁ、彼はそんな身体が飛びぬけてたくましいわけじゃないし、その後に雨や雷を落としたりはしないけれど。

 
今、アタシの傍には男が居る。それが『彼』だ。
アタシは彼がとても好きだ。

彼は今、崩れそうな原稿用紙と沢山の分厚い本に囲まれた低い机の前、畳の上にどっかりとあぐらをかいて座り、困った様にボサボサで短い髪の毛を掻き毟っている。
どこかの探偵みたいにぼろぼろとフケを落としたりはしていないから、その分だけ清潔ね。

黒ぶちの眼鏡の奥はアタシから見て影になっていてまったく見えなかったから、彼が一体どんな表情をしているかはっきりとは分からなかった。
だけど少なくとも満面の笑顔でないことだけは確か。きっと苦しい表情をしている。

アタシは知っている。この男は少々名の知れた小説家などをやっている。
けれど素晴らしい話を書いてベストセラーなんかを出すような身分ではないし、
大体その『素晴らしい話』の基準さえハッキリしていないようなひとだからきっとこうやって一生机にかじりついて文章を書きながら生活をするのね。
アタシだってそんな話の規準なんか分からないけど。
どんなのが素敵だなんて規準はひとそれぞれだから。アタシが言う話じゃないけど。

アタシはそう思いながら彼の隣に腰を下ろした。
彼を見る。溜息が出ちゃう。
いつもいっぱいいっぱいで人生楽しいのかしら。楽しいのかもね。
嗚呼、外はこんなにも明るいのに。目に痛い位の原色の季節。
朝の涼しい時間は何処かへ消えてしまって、しゃんと胸を張っていた朝顔が力なくしなりと頭を垂らす時間。
真っ青な空はどこまでも続いているってことだって確信できる程青いのに。
アタシだけでも一寸外へ出てこようかしら。ほんの一寸。雨が降るまでには戻ってくるんだけど。
そう思いながらアタシは窓の外をもう一度見た。
網戸越しの景色は実際見るよりはどことなく偽者のようで、アタシはまたげんなりとする。
網戸なんかでフィルターがかかっていない、実際のあの空を見てみなさいよ。気持ちいいんだから。


「旅行へ行きたいんだ」


外に出ようかどうしようか真剣にアタシが考えていると、彼から声がかかった。
アタシは顔を彼に向けて苦笑いをしながらそれに答える。旅行、ね。

以前彼と二人きりで何処かアタシが名前も知らないような場所に旅行へ行ったことがある。
晴れていればとても綺麗な景色だと評判のところだった。
車でアタシ達は出掛けた。あの透き通るような可愛らしい青い車で。
貴方は真剣な表情でハンドルを握って、アタシは退屈なのと、通常とまた違う変な感覚に酔いそうになりながらぐたりと助手席に座っていた。

けれどアレは散々だったわね。凄い雨で、見える物も見えなかったじゃない。
景色は何処か雨のラインと霧に隠れて、ただのぼやけた塊になってしまった。
まぁアタシは景色には然程興味は無かったから、幾ら景色が綺麗でも色あせて見えてしまうけれど、でもアレは随分酷かったわ。

視線だけを彼に移して軽く首を竦めた。
アタシの言わんとする意図が伝わったのか、彼が苦笑いしながら視線をまた原稿用紙にやった。
それきり何も言わない。視線も動かさない。気まずいときの彼のクセだ。
動かなくなってしまう。ちょっとつつけば丸くなってしまう団子虫みたいに。
アタシはそれを知っている。


「今度は大丈夫だって。絶対だ」


傍に置かれた雑誌。端の方が幾つか折られている。
アタシはその名前を知っている。ドッグイヤーっていうのよね、それ。
けれど、アタシはその生き物がどちらかと言えば苦手だから口には出さない。
何が恐いと言うわけも無いんだけど、でも、なんとなく恐いのよね。
三丁目に居るジロは温厚でとても良い犬だけれども、あいつ以外は苦手。

ページの折り目。無知なアタシが知っている位だから、彼ならきっとその名前を知っているだろう。
犬の耳って、面白い名前よね。誰がつけたのか知らないけど。
猫の耳でもウサギの耳でも変わらないんじゃないかとは思うけれども。


風でパラパラとその雑誌のページが捲れた。
小説の締め切りは大丈夫なのかしら。今、何かの賞に出す小説を書いているんでしょ。
これが賞を取ったら一流作家の仲間入り出来るかも知れないって言ってたじゃない。


「気分転換だよ。もう流石に原稿用紙と向き合うのも飽きてきた、一日中部屋に篭って夏の雰囲気と原稿用紙だけを見つめるのは精神に悪い」


好きでやっているクセに。だったらもう少しアタシに構ったらどう?取り掛かる前よりもアタシを見なくなった。
アタシは置いてけぼりにされた気分よ。だって貴方の目は何処かにいってしまうんだもの。
いつも、文章を書いているときの貴方は私が見えない場所にいってしまうの。あの雨の日の景色みたいに、ね。


だけど。

文章と一緒に在る貴方はとても嬉々としている。嬉しそうな顔をしている。
その世界にいられることを誇りに思っているような表情よ。
眼鏡の奥の目が輝いているの。気づいていないだろうけど。
悔しいけどアタシはそんな貴方の姿も中々好きなのよ。
だから旅行の日程や何処にいくかなんて下らないことを決めるのは締め切りが過ぎてからにしたら?アタシはまったく焦らないわよ。
貴方が笑ってくれるほうがいいわ。無理して倒れられたらそれこそ大変。アタシはどうすればいいのよ。
アタシは首を傾げて彼にそっと頬を寄せた。これくらいは許してくれるわよね。


それから数日、彼はまるで鬼のようにペンを動かしていた。
カリカリという音は明け方まで止まなかった。
それと、毎日テレビを付けるようになった。チャンネルはいつも天気予報で、女性がせわしなく明日の天気を話していた。
三日ばかり雨が降るらしい。その短い雨の向こうに、本当の夏が待っていますね、と彼女は心持息を弾ませて言った。
彼は雑誌に赤ペンで丸をつけた。
彼の担当の人と出前以外に電話をかけた。
自分の為に酔い止めを買ってきた。そう言えば彼は運転しているときはともかく、他の乗り物には酷く酔うんだっけ。
アタシもだけれど。

原稿用紙のマスは文字でいっぱいになっていき、彼は寝不足の目をしきりに擦っていた。
彼はほんの小さな声で鼻歌を歌った。アタシも何度か聞いたことがある歌だった。
夏を思わせる軽快なメロディーを、彼は掠れたようなか細い声で歌っていた。
アタシはそんな彼がなんだかとても愛しく思えた。抱き締めてあげたいなと思った。
アタシは結局彼がどんなことをしても、どんなになってもきっときっととても好きなのだと思った。