like a LOVE song
1 いくつかの端
隣室の歌声が聞こえてきた。盛り上がっているのか、やたらと合いの手が入っている。マイク越しでもない声がここまで届くのは、相当大きな声なのだろう。何の曲かまではわからない。彼は最近の曲にはかなり疎かったし、カラオケ慣れもしていなかった。こうしてやってきた回数も、たしかまだ右手の指の数よりも多くなかったはずだ。
何を歌うか踏ん切りがつかず、思いついてはやめ、やめては思いついてを繰り返しているうち、急に隣室の音がクリアに聞こえるようになった。彼が選曲パネルから顔を上げると、倖雄がマイクを置いて所在なげにしていた。歌は知らない間に終わっていた。
「上手いんだな、歌。まあ、声はもうちょっと出してもいいと思うけど」
屈託のない笑顔を作りながら愛は倖雄にそう語りかけた。フォローには入ったものの、彼もあまり遊びなれているほうではない。周囲から外れない程度には付き合うものの、彼自身はあまりそういう軟派な世界が好きではなかった。
ただ、倖雄といえばその比ではない。普通の高校生のように広く浅い付き合いをすること自体を嫌っているのだといい、狭くとも深い友人を作りたいと語った。愛はそういう主張が嫌いではなかった。
「そうかな。愛くんは歌上手いの」
肩を竦める愛は、ため息混じりに言った。注文したオレンジジュースに浮かべられた氷が、目には見えない速度でその色を薄めていく。
「ダメ。うちの一族みんな音痴なの。家族のうちじゃ俺が一番マシだけど、それでもひでえぞ、すげえ音痴」
「そうなんだ。上手そうに見えるんだけどな」
不思議そうな倖雄の表情に苦笑を返しながら、愛はふと思いついた曲名を検索してみた。彼の探した曲が七番目にヒットしていた。
「聞いてみるか。本当に下手だぜ」
詳細情報を表示して、決定の一歩手前、というところで彼は問うた。右手でタッチペンを掴んだまま、あと少し踏み出せば選曲が確定される、というところで黒いペン先を遊ばせる。
「それでも聞いてみたいな。僕だけ歌ってるのも悪いし」
無垢な倖雄の笑顔を見て、ブレーキをかける必要がなくなった右手はけれどゆっくりとそのボタンに触れる。モニターには曲名が表示された。一時流行した歌だったが、何かのテーマソングだったろうか。
彼が言うほどその歌は酷いわけではなく、プロの歌手とは当然比べ物にならなくても、決して不快になるような歌声ではなかった。澄んでもおらず、巧みでもなかったが、つい引き込まれるような魅力を持った声だった。
曲が最後まで演奏されきったとき、彼はつい拍手をした。愛は照れくさそうにもとの場所に座ると、咳払いを一つした。
「ほらな、ひどいって言っただろ」
「ぜんぜんひどくなかったよ。ちょっと聞き惚れた」
愛はやはり照れくさそうにしながら頼んでいたコーラに口をつけた。とげのあることを言うことも多いが、概ね愛という人間は情に厚く、また照れ屋だった。倖雄は彼にどこか自分と似ている点を感じていた。
「次はお前の番だからな、俺ばっかりに歌わせようなんて思うなよ」
やはり恥ずかしかったと見えて、ほおを少し紅潮させながらそうせっつく愛に粘り気のある笑みを浮かべながら、倖雄は次の曲を選びはじめた。愛はまた歌が始まってしまう前に彼に訊いた。
「お前、結構カラオケ来るのか」
「ううん。月に一回くらい」
愛はそうか、と素っ気無く応えてコーラにまた口をつけた。彼が言う月に一度のカラオケというのは、愛が経験してきた右手におさまる回数のものにくらべてずっと良質で、高等な趣味であるようだった。そこには打算のようなものはなくて、純粋に歌を楽しむ心だけがあるからだろう。
倖雄は曲を決めたらしく、選曲パネルを筐体に向けて持ち直し、送信ボタンを押した。始まったその曲は流行もしなかった、単発のくだらないものだったが、倖雄の澄んだ声はそれを耳障りにさせない力を持っていた。
愛のように心を鷲掴みにする荒々しさはなかったが、しっとりと包み込む環境音めいた優しさが、倖雄の歌にはあった。もちろん完成されていない素人の業だったが。
「やっぱり上手いな。トレーニングとかやるのか」
歌い終わって一息ついた倖雄は両手と首を振りながら必死に否定した。
「やらないやらない。僕は普通に歌ってるだけだよ」
「そうなのか。ちょっと妬けるな。もうちょっと安定した歌い方が出来ればいいんだけどな」
倖雄もスポーツドリンクに手をつけた。愛は歌う曲を二択から選びあぐねていた。
「でも、面白い歌い方だから良いよね。ね、まだ歌うでしょ」
愛は照れくさそうにしながらも、笑みを浮かべて応えた。
「勿論。まだ一曲しか歌ってないんだぜ」
慣れないながらも、倖雄とだからか遠慮なく曲を歌うことを受け入れられた。決めかねていた選択肢から片方を選び出し、彼のペンは転送ボタンに触れる。
「なあ、割勘でなくて本当に良かったのか。別に見栄を張るような間柄でもないし、折半でいいと思うんだが」
カラオケルームを出て、彼は倖雄にそう訊ねた。飲食物含め、今度の代金はすべて倖雄が支払った。それは入室前からの彼の希望だったが、彼がどうしてそうしたのか愛には度しかねた。
「別に良いよ、そんなこと」
照れくさそうに髪をかきながら、倖雄はそう言った。愛は納得できないような表情をして、倖雄の顔をじっと見つめた。そうされると倖雄は更に顔を紅くして、顔を背けた。何かを隠しているのを隠しきれていない。
「気になるだろう。言ってくれよ」
愛の視線から目を逸らして、逡巡している風だった倖雄は、思い切ったように向き直るとその理由を語り始めた。
「何でもないことだから、笑わないでよ。小学生の時さ、大原公園行ったの、覚えてる」
大前公園とは、彼らの住む五十嵐市の隣町にある動物園だ。隣町と言ってもそれなりに遠く、自転車で行けば往復一時間はかかるだろう。道のりも決して平坦ではなく、急勾配や幅の狭い道が続く。それは小学生男子の心を揺さぶるに足る冒険だった。
「そういえば行ったな。俺とお前と、あとは大前と橋本か。あいつら東京だっけ」
倖雄は、元気にしてるかな、と呟いた。愛も少しだけかつての級友に思いを馳せてから、その先を促した。
「それとカラオケが何の関係があるんだよ」
「あの時さ、僕帰る時間が遅れそうになったのに、八円しか持ってなくて、公衆電話が使えなかったんだよ。その時、十円玉と八円を交換してくれたでしょう。その時のお礼みたいなものかな。こんな頃まで忘れてて悪かったんだけど」
愛は目を丸くした。倖雄は彼がなぜそんな顔をするのか、と首を傾げた。
彼は少しの時間、言葉を探るように道路を見つめて歩いていたが、少しして向き直って問うた。
「覚えてないけど、もしそうだとして、じゃあそのときの二円のお礼が二千円とちょっとのカラオケ代だっていうのか」
今度は倖雄が目を丸くする番だった。
「え、何か変かな」
倖雄のとぼけた反応に、愛は笑うでもなく真剣に迫った。
「変だろ。よく考えて言えよ、あれから五年経ったとはいえ、それだけで千倍だって。なんだよその利率。違法だろ」
愛の叱責するような声に少し逃げ腰になりながら、彼は反論した。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀