北極星が動く日
２
打席に入った茂樹は、マウンド上の相手投手を睨みつけた。睨み返してくるかとも思ったが、彼はマウンド上から静かに見返してくるだけであった。ポーカーフェイスなのだろう。この試合で彼が表情を変えたところを、茂樹はまだ見ていなかった。
だが、今はそんなことを考えている余裕はない。もしかしたらこの打席が、自分にとって高校生活最後の打席になるかもしれないことは、茂樹も重々承知していた。余計なことは考えず、ファーストストライクから積極的に打ちにいくことだけを意識して、茂樹はバットを構える。
相手投手が左足を引き、投球モーションへと移った。体を屈め、地面に近い位置でボールをリリースする。アンダースロー、所謂サブマリンと呼ばれる珍しい投法だ。茂樹も、ここまで本格的な下手投げ投手のボールを打席で見るのは、この試合が初めてであった。
インコースのやや高めに、ボールが向かってくる。見逃せばボールかもしれないが、ストライクかもしれない。ギリギリのコースだったが、茂樹は思いっきりバットを振り抜いた。
甲高い金属音の直後、打球が１塁線を低いゴロで這っていくのを視界に捉えた。ベースの後ろで守っていた一塁手が、茂樹から見て右に飛び込む。捕られた。茂樹は走りながら思ったが、打球が一塁手のグローブに入ることはなかった。
「フェア！」
１塁塁審の声が聞こえる。打球はベースに当たって上に弾み、一塁手の体を越えていた。スタンドから歓声があがる。そこでようやく茂樹は、自分がヒットを打ったことに気づいた。それも長打コースだ。興奮を抑えられないまま、茂樹は１塁ベースを蹴って２塁ベースへと向かった。
２塁ベースの手前で３塁のランナーコーチである鈴山に目をやる。２塁ベースでストップするのか、それとも３塁へ向かうのか。その指示を受けるためだ。
「マジかよ……」
鈴山がぐるぐると腕を回している。絶対に２塁でストップだと茂樹は思っていたのだが、相手側に何らかのミスがあったのだろう。彼は２塁ベースを蹴り、スピードをほとんど落とさずに３塁ベースへ向かった。
「真っ直ぐ滑れ！」
ジェスチャーとともに、鈴山から指示が出される。彼の指示通りに、茂樹はベースへ真っ直ぐ滑り込んだ。その少し後に、ライトからの返球が３塁ベースへ到達したが、審判の腕は当然ながら横に広がった。
「ナイスラン！」
「ああ……ありがとう」
鈴山と軽く言葉を交わすも、茂樹はかなり息が上がっていた。だが試合の進行は待ってくれない。次打者である９番の佐久本は、既に打席の横にいた。
３塁ベースの上で、茂樹は１度深呼吸をする。額から流れる汗をアンダーシャツの袖で拭うが、また流れてくる。仕方なく彼は我慢することにした。
炎天下の中で８回の裏まで試合は進んでいる。その中、全力疾走で３塁ベースまで走った茂樹の体力は、既に限界近くへと達していた。
佐久本は、今日ここまで２打数無安打であり、１打席目はボテボテのショートゴロで併殺打に倒れている。だが、監督は彼に代打を出そうとは思っていないようだ。佐久本は９番であるが、今夏の大会では３割を優に超える打率を誇っており、バントも十分に上手い。この場面では、控え選手の誰と比べても佐久本の方が期待できるのだ。
初球のサインは「打て」であった。監督は佐久本が打つことに賭けたのだ。
相手のバッテリーは初球をウエストすると、２球目も外角に大きく外すウエストボールを投げた。０ストライク２ボールとなったところでサインが変わり、「待て」のサインが出た。
逆転のランナーを出すことは避けたいのか、相手バッテリーは、３球目でストライクを取ってきた。「待て」のサインが出ている佐久本は、そのボールを見送る。
１ストライク２ボールで迎えた４球目に監督はまたサインを変える。そのサインは「スクイズ」だ。
もしかしたらスクイズかもしれないと思っていた茂樹は、やっぱりきたかと気を引き締める。
相手バッテリーは最初の２球、スクイズを警戒してウエストボールを投げている。カウントを悪くした今、彼等にウエストボールを投げる勇気はないだろう。後は、佐久本がしっかりと転がすだけだ。
８回裏まできて１点差で負けている今、スクイズだろうと何だろうと１点を取りたいというのは、茂樹ら丹染高校もメンバー全員が思っていることだった。
セットポジションに入っている相手投手の左足が上がった。まだだ、と茂樹は自分に言い聞かせる。ここでスタートしてしまったら、投手に気づかれてしまい、ウエストされてしまう可能性がある。
相手投手が体を屈め、それとともに彼が茂樹を見るのは不可能になった。今だ、と頭の中で茂樹は叫び、本塁へと走った。
佐久本がバントの構えに入る。そして相手投手の腕からボールが投じられた。しかし、次の瞬間には茂樹の目の前に驚くべき光景が映った。
「なっ……」
相手の捕手が立ち上がったのだ。それを見て、塁間の半分ほど進んでいた茂樹は慌ててブレーキをかけた。
佐久本が飛び込んでバットにボールを当てようとするが、それが当たるはずもなく、捕手のミットにボールは収まった。そして彼がボールを手に持って茂樹を追いかけてくる。
スタンドからどよめきが聞こえた。
「ちくしょう……」
必死にそれから逃れようと、捕手の方を見ながら茂樹は３塁へと走る。そして捕手が三塁手へと送球したのを見て、今度は本塁へと走る向きを変えた。
本塁には、ベースカバーに入った相手の投手がいる。その奥には、スクイズを失敗した佐久本が申し訳なさそうにしているが、今の茂樹には、それを気にしている余裕は無かった。そもそも、佐久本に責任は殆どない。
捕手からボールを受けた三塁手が、すぐに茂樹を追いかけてくる。彼は舌打ちをしながら、距離を詰められないようにする。そして三塁手が本塁に送球したのを見て、今度は３塁へと走る向きを変えた。
不意に足が絡まるような感覚がし、茂樹の体が前に傾く。転ばないよう小刻みに足を動かすが、彼のスピードが落ちたのは明らかだった。
「アウト！」
茂樹が背中にグローブが触れたことに気づいた直後、審判の声が聞こえた。
球場全体が大きなため息に包まれる。それを聞きながら、茂樹はゆっくり地面に手と膝を着いた。
体力は限界に達している。何往復したのだろうか。おそらく２往復くらいなのだろうが、それだけでもかなりハードなものだった。
「茂樹、大丈夫か」
ランナーコーチの鈴山が駆け寄ってきた。そして彼は茂樹を立たせようとする。疲弊している茂樹はそれに甘え、鈴山の力も利用してゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫や。悪い、チャンスやったのにアウトになった……」
「気にすんな。茂樹のせいじゃない」
鈴山はそう言うが、絶対に落ち込んでいるだろうと茂樹は思っていた。この状況で落ち込まない者の方が珍しい。
茂樹は佐久本にもう大丈夫だということを伝えると、１人でベンチへと戻った。
スタンドからはパラパラと拍手が聞こえる。３塁打に対する拍手か、今の粘りに対する拍手かは分からなかったが、茂樹にとってはどっちでもいいことだった。